姿勢 [総論]
考古学に限らず学問という営みには、ある共通した要素がある。人を引き付ける何かが。
読んでいて面白いと思う論文には、ある共通した要素がある。思わず引き込まれてしまう何かが。
ものを作り出す技術者や職人ではなく、あるいは人を育てる教育者や組織を統率する指導者でもない、創造的な学問を生業とする研究者として、共通したなにか、必要な要素。
研究史と称して、既存の枠組みが形成された経緯を調べ上げて、誰が何を言ったかを確認するだけの論文。
どこから何が出たか、こんなものがここから、あそこにもといったことを集めて、既存の枠組みに新たな要素を付け加えただけの論文。
外国でなされた研究を調べて、こんな研究がなされている、あんなことが指摘されているといったことを並べただけの論文。
何かが決定的に欠けている。
こうした論文は、読んでいて空しくなってくる。ご苦労様、で、あなたのご意見は?
それは、こんなことが言われているけど本当なのだろうかとか、なぜこのように考えることができるのだろうか、このように考えたほうがよりうまく説明できるのではないだろうかとか、こうした問題の立て方自体が間違っているのではないだろうかとか、つまり従来のやり方・考え方に対する素朴な疑問が根底にあるのかどうかということである。
こうした素朴な懐疑心が研究の出発点、初発の動機に感じることができない、認められない研究というのは、面白くない、すなわち山口昌伴氏曰く「やらされている研究」である(【07-01-15】参照)。
健全な懐疑心に基づく研究は、必ずや自らの意見を提示することを通じて、既存の枠組みに対する異議申し立てという形になるだろう。いや、ならざるを得ない。どのようなレベルであれ。
だから本来創造的な営みとしての学問に携わる研究者としのて評価基準は、既存のものに何か新たなものを付け加えたとか、隙間を埋めたといったことではなく、既存のものに対して異議申し立てをしたかどうか、それもどのような相手に対して、どのようなレベルの異議申し立てをしたかどうかによってなされるべきである。そうした精神からこそ、真の創造性が、新たな何かが生み出されうる。
これからは、研究者の評価基準として、査読論文を何本書いたかとか、名のある出版社から何冊本を出したかといったことではなく(勿論ある立場にいる人たちにはこうした評価基準が重要であることも重々承知であるが)、どのような種類の異議申し立てをしたか、してきたか、しているかといったことに置いて見てみよう。
私たちに必要なのは、問いを提出することである。
当たり前とされてきたことを疑う姿勢こそが、重要なのだ。
何事に対しても疑問を感じない人間は、学問をすることに向いていない。
>何事に対しても疑問を感じない人間は、学問をすることに向いていない。
仰るとおりだと思います。
>研究史と称して、既存の枠組みが形成された経緯を調べ上げて、誰が何を言ったかを確認するだけの論文。
このような論文・研究も、新たな研究をするための基礎として重要ではないかと考えます。例えば、ティコ・ブラーエの天体観測記録があったればこそ、ケプラーの法則がありえたのだと思います。
by アヨアン・イゴカー (2009-02-11 10:15)
私も「重要ではない」とは考えておりません。さぞかし意義あることでしょう。
ただし残念ながら個人的には「魅力的ではない」と思うのです。
by 五十嵐彰(伊皿木蟻化) (2009-02-11 15:30)