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岩田2007『議論のルールブック』 [全方位書評]

岩田 宗之 2007 『議論のルールブック』 新潮新書236 

「議論とは「正しいことを得ようとする場」だと述べました。そして、正しいことを得るには、仮説を出し合い、それに対して反証を出し合うという手法が有効です。とするなら、議論の場とは、お互いに相手の仮説を否定するような証拠を出し合う場だということになります。極言すれば、議論とは人の説にケチをつける場なのです。
ですから、議論の場では、自分の意見にケチがつくということは、嫌なことではありません。むしろ喜ぶべきことです。自分の意見が否定されると嫌だと感じ、そういう人を相手にしなくなってしまうことの方がずっと問題です。たくさんのケチがついて、それを一つ一つ検討していくことで、仮説は一歩一歩「正しいこと」に近づいていくのです。」(120-1.)

ネット上の掲示板などにおいて議論以前の低レベルの口喧嘩が絶えないことに対して、あるいは不毛な言い合い、議論のすれ違いがなぜ起るのか、「議論とはどのような考え方に基づいて行なわれるべきなのか」をまとめた大変示唆に富む論述である。

自分の意見にケチがつくことを嫌がる、あるいは組織として自分たちの考え方を批判する意見を遠ざけるといったことは、人間の習性としてまま見られることである。しかしそのことが結果として、妥当な判断機会を逸し、同じ意見を言い合う仲間内だけの「仲良しクラブ」に堕する一因となり、終には活力を失い終局を迎えるということも世の常である。
大切なのは、どのような「ケチ」なのかということである。

「議論では、とかく自分の主張を通すことを最優先に考えてしまう人がいます。それは間違いです。本来、議論では相手の話しを聞くことが最優先で、それに比べれば自分の主張はあまり重要ではありません。(中略)相手の発言が自分(の発言)の否定になっていると、どうしても感情的に反発してしまいますが、それは自分(の発言)に対する自信のなさの裏返しです。自分に自信がない人ほど、ちょっとした否定でも自分の全人格を否定されたように受け取ってしまいます。
相手の発言を否定せず、理解しようとするところから議論は始まります。相手の発言が激しい口調で自分を攻撃しているように感じられたとしても、よくよく話しを聞いてみれば、自分にとって非常にためになる情報や意見が含まれているかもしれません。相手の発言に反発してしまうと、それらを受け取れなくなってしまいます。」(91-2.)

参加者の一人として会場から行なった発言に対して壇上から怒鳴られたという経験を持つ身としては、今となっては申し訳ないことをしたと思う。

「議論の勝ち負けを気にする人がいますが、それは間違っています。議論には勝ち負けなどないからです。あえて言えば、相手の意見をたくさん引き出せた人が議論の勝者であり、反対に自分の意見を言うばかりでそこから何も得られなかった人が敗者なのです。」(106.)

かつて本ブログ上においても、「論争のルール」なるものが示されたことがあったが、これまた今になって思えば、もう少し適切な対応をすべきであり申し訳ないことであったと思う。

「議論とは皆でするものです。細部に拘泥してあげつらったり、一方的に「根拠を示せ」と言ったりするのではなく、皆で一緒になって根拠を見つけていけばいいのです。」(164.)

これまた思い当たる経験がいくつもあるが、相手を貶めるための論難や単なる足の引っ張り合いなどに対して、真に建設的な批判や自らの意見に対する責任を踏まえた議論とを見分ける、識別する能力を私たちは鍛えなければならない。そうした経験を通じて、「議論のルール」なるものも身につけることができ、不毛な議論を回避し実のある議論を行なうことができるだろう。


タグ:議論
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あきもと

自戒を含め、思い当たること限りなし
特に相手の顔や語調が見えない、不分明なネット上では…
いま読んでる本が読了したら、僕も読んでみようと思います
by あきもと (2009-02-19 01:26) 

アヨアン・イゴカー

引用されている文章の考え方に基本的に賛成です。
私が嫌いなのはディベートと言う詭弁です。ディベートを弄んでいる人間には、深い哲学がないと思います。議論に勝ち負けを付けると言うのは、全く本質的ではありません。あるのはただ一つ、事実かどうか、真実かどうかです。どれだけデリバリーが上手かろうが、反論で相手をへこませようが、事実は事実であり、変わりません。建設的、相互協力的議論が科学には本来常に求められていると確信しています。宗教は別です、これは事実ではなく信仰ですから。
by アヨアン・イゴカー (2009-02-19 11:46) 

五十嵐彰(伊皿木蟻化)

「この人ならば」と見込んで提出した異見に対して、思いもよらない反応が示され、自らの人を見る目のなさを思い知らされたことが幾度かあります。もちろん、私自身もそうした失望を多くの人に与えているものと思わされますが。自らを省みて、糧としたいと思います。
by 五十嵐彰(伊皿木蟻化) (2009-02-21 15:17) 

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