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エレ研 [雑]

「エレケン」?
往年の喜劇俳優「エノケン」ではない。(若いヒトには通じないだろうな。私もよく知らない。)
「エレキギター研究会」でもない。
「エレベーター研究」の略である。
といっても、東芝やシンドラーといった昇降機会社に関連した業界団体ではない。
ある共同研究のテーマが、毎年上下に移動するありさまの意である。

ある年のテーマは、Ⅶ層からⅨ層の石器群である。資料集を作ってシンポジウムをやって、さぁ次はⅤ層からⅥ層の石器群、そしてその次はⅣ層下部からⅤ層上部、そして・・・

石器に限らない。土器でも何でも同じである。縄紋でも、弥生でも。古墳でも、近世陶磁器でも。

ある特定の研究対象を定める。そのことに関心のある研究者が集まり、何か共同研究のテーマを定めようということになる。すると、ある一定の地域を区切って、ある一定の時期を区切って、資料を集めて、そこから何か言えることを皆で検討しよう、ということになる。そうしたテーマはヨコに動くこともあるが、多くの場合はタテに動くことになる。この時期はひと通り資料を集め尽くしたから、次はその上に、そしてその次は更に上に、あるいは上には行き着いてしまったから、もう一度下に。

これは、なにも特定地域をフィールドとする地方研究会に限定される話しではない。
全国規模の研究団体における大会テーマ然り。
考古学専門の商業雑誌における特集テーマ然り。

「創造的な研究を目指すならば、「人は必然的に孤立し、いわば孤高の存在とならねばならない。他の人びとや仲間たちから独立せねばならない。研究の仕方や、テーマのとりあげ方などすべての点で、他の人びとから違った視点に立つこと」(サイード)が必要になる。人びとがグループをつくり、その中の一員となって安心を買おうとするのは、ムラから外れて孤立することを恐れているためである。ネトルらはこうも言う。
「日本人学者の多くは孤独に十分耐えうるだけの強靭な精神をもっていない」から革命的な新しい領域を開く研究テーマが浮かんでこない。孤独に耐えられないから、学問のはやりすたり、流行に遅れまいとする。研究の孤独に耐えられないとすれば、多くの研究者は、流行している研究に身を投じることになる。そこにいれば、孤独を感じる必要もなく、安心していられる。集団主義がとりわけ問題なのは、自分で考える必要の少ない研究に若い人たちが巻き込まれることで、想像力をふくらませる機会は奪われ、思考力は衰える。(中略)長大なうえに、当たるかどかわからないような研究計画、つきつめた論理の長い連鎖といった研究こそは研究者が生涯をかけて取り組むべき魅力あるテーマだが、そういった研究の姿勢は出てくる余地がない。そして、そのときどきの流行が気になり、独創的なアイデアや理論を生む機会が減り、独自性を失い、自主的な研究ができないとき、人びとが安穏な生き方として選ぶのは、だれか他人の下について、その人に率いられるグループの一員となるという道で、悪循環に陥っていくのである。
日本人にはじめから論理的思考能力がないのでなく、長年にわたり以上のような環境におかれておれば、そうならざるを得ないと見るべきであろう。」
(早川和男2007『権力に迎合する学者たち』三五館:126-7.)


タグ:研究
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アヨアン・イゴカー

学問の分野に於いてだけではなく、芸術の分野においてもここに書かれていることが当てはまると思い、心の中で快哉を叫びました。孤独でいること、孤独に耐えることができること(本人は孤独だとも、耐えているとも思っていないかもしれないが)。それこそが、新しい、誰かの成しえなかったことを行いうる基盤であると、思います。多数決に従うと言うことは、独自性が無い、と言うことでもあります。社会生活をする上で民主主義は大事ですが、芸術や学問には民主主義的な人物よりは「独裁者」の方が必要で、この「独裁者」「独善的な姿勢の持ち主」こそが、変化を齎すことになるのでしょう。新しいことを何か行うと、他者と異なっているが故に孤立します、一部人々の支持を除いて。学問も芸術も、とどのつまりは自分自身の良心との戦いなのだと思います。妥協せず、自分自身の感情に嘘をつかないこと、それだけだと。

民主主義の原則、多数決は、正当性を保障することもできなければ、正当性を保障するための原理でもありません。それは、複数の見解があるのに何らかの結論を出さねばならない時の、折衷案の見つけ出し方に過ぎません。少しも科学的ではありませんし、真理は多数決で決められるものではありません。
by アヨアン・イゴカー (2008-05-02 00:32) 

五十嵐彰(伊皿木蟻化)

冒頭で、早川和男さんが院生になったときに、恩師である西山夘三さんから教わった「研究者の心構え」とでもいうべき6箇条を示されています。
1.研究テーマは、本質的であるか。
2.時代の課題に、応えているか。
3.研究は、主体的か。
4.研究の方法は、科学的・論理的であるか。
5.時代をリードする先頭に、立っているか。
6.研究体制(態勢)は、十分か。
常に自らに問い直し続けたいと思います。
by 五十嵐彰(伊皿木蟻化) (2008-05-03 08:40) 

思邪無

お久しぶりです。
私事ですが、相変わらず悩みは尽きない毎日をおくっております。
今回の記事について感銘を受けましたのでコメントさせていただきます。

「考古学界」という狭い世界で果たして何ができるのか?またそれは可能なのかという疑問がどうしても解けず、路傍であっちに道草、こっちに道草しております。
「過去」とは何か、モノの認識とその価値とは何か、そしてそれを関係付ける土地と人との立ち位置(状態)とは何か。
孤高であることは少なくとも今の「日本考古学界」では難しいように思われて、文化人類学や哲学には考える為の沃野はありはしないだろうか、はたまた海外に飛び出せばよいのだろうか・・・・。

権威・常識というブラックボックスからいかに距離を置いて考えることができるのかが、新しいものを生み出すための最高の生育環境といえるのでしょう。文化という鎖、身の回りの環境という鎖、時空間に縛られた存在であるという鎖。生きているという鎖。



古代土器の印象

認識以前に書かれた詩-
沙漠のたゞ中で
私は土人に訊ねました
「クリストの降誕した前日までに
カラカネの
歌を歌って旅人が
何人ここを通りましたか」
土人は何も答えないで
遠い砂丘の上の
足跡を見てゐました

泣くも笑ふも此の時ぞ
此の時ぞ
泣くも笑ふも
          (中原中也2005『中原中也詩集』角川春樹事務所:145)


by 思邪無 (2008-05-03 19:33) 

五十嵐彰(伊皿木蟻化)

「なぜ考古学がこんな状況のもとに低迷しているのだろうか。その原因の一つは考古学アカデミーにある。とうぜん日本考古学の主体となって、その学の正しいあり方を導くべき大学の考古学が知識欲の追求と、資料追随主義という学問の錯覚に毒されて、それ自体爛熟し化膿して崩れかかってきているのである。現に資料も資力も持たぬ巷の考古学究が、生活にすら絶望しながら、方向はともあれわくわくと心を湧き立たせて、私たちの国土を、私たちの祖先を、私たちの精神を、私たちの不滅の魂を、真実の上代史の中に求めようと、血みどろになって努力しているのに、なんとわれわれのアカデミーは、みみずと古き美の死骸を、いまだに野良犬のようにあさってうろうろしている。国外にまで出かけてその国の民族の遺産を頂戴しようという勢いである。」(藤森栄一1938「掘るだけなら掘らんでもいい話 -若き考古学の友へ-」(1974)『考古学・考古学者』学生社版所収:18.)
こうした文書を読むと、「日本考古学」とやらは、半世紀以上が経過しても、その本質は全く変わっていないことが確認できます。そして今から70年も前の戦時中にこうした文章が記されたということ自体が未だに信じ難いのですが、書いた本人もまさか自分の文章が、21世紀のデジタル空間で書き写され、「若き考古学の友へ」向けて放たれるとは予想もしなかったでしょう。しかし真実を捉えた魂のこめられた文章というものは、どのような時が経過しようと、その精神を受け継ぐ人びとによってこれからも語り伝えられていくことでしょう。
by 五十嵐彰(伊皿木蟻化) (2008-05-03 22:10) 

思邪無

励ましの言葉ありがとうございます。
なんと皮肉なことでしょう。
しかし、苦言ばかり呈していても始まりません。前向きに(建設的に)進んで行かねばなりません。

理性と感性。これは学究における両輪のようなものです。鋭さと瑞々しさ、今日東山魁夷の作品を見て、瑞々しさを失ってはならない、養わなければならないと感じました。なんとなればそれは神と自己の対話であるから。
by 思邪無 (2008-05-04 19:31) 

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