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考古誌的秩序 [考古誌批評]

最近経験したある事例について紹介しよう。

ある人から、「この層からこの遺物はおかしいんじゃないの?」との指摘を受けた。
確かに普通に考えれば「この層」から「この遺物」は、本来出るはずがない「異物」である。
しかし、実際に出ているのである。
「新しい層から古い遺物が出土する」のは、掘り返しや動植物による浮上あるいは長期にわたる伝承・使用、再利用など様々な人為的・自然的要因によるものと想定される。一方で、「古い層から新しい遺物が出土する」のは、<TPQ>という原則に基づき、後世の混入以外に考えられない。すなわち、本来上位層に包含されているべき遺物が、何らかの要因によって下位層に混入した → 混入した要因、例えば「掘り込み」などを現場段階で識別できなかったのではないか → それは調査精度の低さを表しているのではないか → それならば、本来あるべきではない場所から本来あるべきではないもの「異物」を排除することで、つじつまを合わせた方がよいのではないか という連想が働く。

下に堆積した層は、上に堆積した層よりも古い。上に堆積した層は、下に堆積した層よりも新しい。これが地質学の大原則「地層塁重の法則」である。
そしてある層にはある特定の化石が含まれるという「地層同定の法則」を考古学に援用して、「ある層にはある特定の遺物が含まれる」だから「下位層には古い遺物が、上位層には新しい遺物が含まれる」という考古学的な層位論、層位認識(実は蓋然性に基づくある種の想定)が形成されてきた。しかしこの認識は、存立根拠が不十分であることが明らかになった(五十嵐2006「遺構論、そして考古時間論」)。

しかしこのような認識は、古いものは下に、新しいものは上に、という私たちの常識的観念にも支えられて、未だに強固に維持されている。だから下位層出土遺物には古いものが、上位層出土遺物には新しいものが並び、それが当然と受け止められている。
古い層から出た古い遺物群の中に、1点だけ新しい遺物がまぎれ込んでいたら、それは「異物」として排除され、混入として新しい遺物群の中に移動される。
新しい層から出た新しい遺物群の中に、1点だけ古い遺物がまぎれ込んでいたら、それも「異物」として古い遺物群の中に移動される。
こうして、下には古いものだけが、上には新しいものだけが並ぶ、という考古学的秩序が維持される。

発掘された資料相互の秩序観は、「報告書」という名の書籍に掲載される形態をもって明確に表明される。
下層出土遺物の図版に、本来上層に含まれるべき遺物は、掲載しない。古い遺物群に混入した新しい遺物群は排除する。
秩序を乱す「混入」は予め排除することによって、ありうべき秩序の維持が図られる。
これは、見出されたありのままの事実をそのまま表明するというよりも、「本来このようなものである」「こうすべきである」という特定の規範に基づいて、事柄を整除することによって、自らの観念を表明しているとも言えよう。

規範というものは、規範を乱すものが出現したときに初めて意識される。規範を乱すものがない状態、すなわち何の違和感もない、普通の状態の時には、規範が表面化することもなく、物事は整然と進行していく。
ただしある規格外の事例、予想に反した出土例に直面したときに、私たちが無意識に内面化している約束事・規範が顕わになる。どのように対処するのか。例外的な事例として取り込み規範の維持を図るのか、それとも例外を例外とせずに規範自体の変更を模索するのか。

これらは、様々な事態にも当て嵌まる事柄である。
例えば「捏造問題」などにも。


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アヨアン・イゴカー

 迷惑かもしれませんが、一言申し上げます。私は上記の状況を見たら、現状どおりに記録しておくことを是とするでしょう。何を以って考古学とするかは解釈、議論があるのでしょうが、考古学が学問であるためには、科学的姿勢が常にとられなければなりません。誰でもが、その場でも、後でも、冷静に考察できる状況になければなりません。刑事事件での現場証拠を刑事が自分の推理に有利な証拠だけ集めるのと同じ間違いを犯すことになるでしょう。
 歴史も、一人の歴史家が、絶対的な権威をもって、史料の解釈を法則のように固定してしまったら、学問ではなくなります。宗教に堕してしまいます。進化論の出てきたときのキュビエのような、それこそ化石のような存在になってしまいます。
 もし、出てくるべきでない異物が出てきたのであれば、それはいつ混入したのか考察する必要がでてきます。そして、混入された意図、背景を考えるべきだと思います。
 混入の原因を探るのは、さながら推理小説に似ていると思われます。
by アヨアン・イゴカー (2008-04-08 00:39) 

五十嵐彰(伊皿木蟻化)

「遺構遺物はそれぞれ独立した存在ではない。遺物相互あるいは遺物と遺構との関係に意味のある場合に特に注意しなければならない。」(宮尾 亨2007「報告書とは」『考古学ハンドブック』新書館:63.)
腰帯に「理論と現場、考古学の最先端!」と謳われている書籍における記述です。「意味のある場合」とは、どのような「意味」が、どのようにある場合なのか? 私たちは、そのことをこそ明らかにしなければならないのではないでしょうか。
by 五十嵐彰(伊皿木蟻化) (2008-04-08 21:10) 

廣田吉三郎

私もアヨアンさんと同意見です。過去に現場調査で、「報告書上のつじつまを考えて記録を取る」と言い切った調査員に何回も出会いました。その度に議論しましたが、彼らの言い分は、「現場で解釈できないものは後で解釈できない」というものでした。こういう人たちを観察すると、そもそも「英語が苦手で、理数系がだめだから考古学やってる」という傾向があります。そもそも科学的指向性に乏しく、お二人のような厳密な議論をしない人たちなのです。残念ながらこうした考古ボーイの多くが地方自治体(もちろん一部の)の担当者になっているケースがあり、つじつまの合った検証不能の報告書が世に出てしまうようです。
私は、断固として事実のありのままを細大漏らさず記録すべきと考えております。後に判断の誤りを検証できるような記録が、真っ当な学術記録であるべきだと思います。
by 廣田吉三郎 (2008-04-24 17:52) 

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