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#20:20080409 [セミナー]

第2考古学セミナーも、とうとう20回目である。
今回は、「発掘調査報告書のアルシーヴ -認識の表象-」と題して発表していただいた。

私たちが、考古学というものをどのように捉えているのか、何を調査・研究対象としているか、それらはいったいどのような基準で選び出されているのか、何と何とを一義的に有意な関係と考えているのか、そこで優先されている区分は何か、材質か、出土状況か、遺構単位か。
こうした考古学的認識は、調査者の様々な記述を通して表明されている。特に私が「考古誌」と呼び、一般的には「発掘報告書」と呼ばれている媒体によって。

土器や石器を拓本やロットリングで版下を作って・・・という時代は、既に過去のものとなった。今や陶磁器から漆椀、下駄、様々な金属製品に至るまで、デジタル・データを主体として運用される時代となった。どこの現場にいっても光波で計測し、整理事務所にはコンピューターがずらりと並んでいる。もちろんこれは私が見聞きしている都市部に限定されている状況である。しかし考古学的手法は、確実に変革されつつある。
だが、そうした機器を操作している私たちの認識は、未だに従来通りということが多いのではないだろうか。そこに様々な軋み、歪み、齟齬が発生しているように思われる。

「本当に重要なことは、考古学と情報科学の有意義な融合であろう。例えば、GISを基盤とした応用情報技術開発やその促進を目指す時空間情報科学という現象科学のあり方を模索しても良い。従来の学問分野を情報処理技術で縦横に横断し、あらゆる存在や現象を時空間情報で標準化し、歴史的・地理的現象を「科学」する方法論と実践が議論され評価される。だが、日本考古学が歴史学の一員である現状は、現象科学としての時空間情報科学への道は、まだまだ遠く険しい。ある意味で、ヴィンデルバンドが、その著『歴史と自然科学』(Windelband,W. 1936:篠田英雄訳)の中で、「歴史学とは、歴史規定性を備えた現実生起の事件科学であり、個別的記述方法である」とした近代歴史学の系譜を、物質資料を基盤にストイックに希求し続けている側面がある。歴史学における個別的記述方法と、現象科学での手続き的再現性を必要とする方法は相容れない部分があり、本書の読後、「数字」の信憑性に疑いをもった方も少なくないだろう。だが、正しくその「数字」を見つめる術があれば、「数字」は個別的記述方法の信憑性を計ることもできる、強力な武器であることも事実である。」(津村宏臣2006「海外における考古学GISの現状と日本の課題」『実践考古学GIS』NTT出版:384.)

<もの>認識を突き詰めたとき、そこに現れるのは「自然科学と対立す可き文化科学の研究法」ですらなく、さらには「史学の主として取扱ふ所の文献的資料と対するもの」(濱田1922:11.)とも異質な営みとならざるを得ないのではないだろうか。

しかしながら、私たちを取り巻く現実は、「まだまだ遠く険しい」といった表現ですら、物足りないほどの困難さを抱えている。それは、「日本考古学」が「歴史学の一員である」かどうかといった次元とは別に、「日本考古学」が「日本」という特定の社会において存在しているという本質的な規定による。そしてそのことは、40年前から(あるいはそれ以前から)的確に指摘されつつも、未だにその問題性を克服し得ないことに明瞭に示されている。

「現在全国の考古学者を総動員して各地で行われている事前調査は、受益者負担の名によって、開発側の資金によって行われている事実に端的に示されるように、あくまで開発に従属して行われる調査であり、客観的には政府・独占の開発政策に考古学研究者を奉仕させるものにほかならない。かかる事前調査は、その本質において日本の考古学研究者の自主的研究計画を破壊し、考古学研究者を「記録保存」のための発掘機械の位置におちいらしめるきわめて危険な性格をもっている。」(沢本 淳1968「考古学の直面しているもの」『文化評論』第85号:41.)
「日本考古学の体質ともいうべき、個別的な資料自体を物神的に偏重する傾向、個別形態論的研究を自己目的化する傾向、そうした学風から必然的に助長される研究者相互のセクト性と派閥性は、現在の考古学の危機の克服をはばむ、重大な内部的な要因となっている。」(同:43.)

「日本考古学」という活動が、どのような社会的環境のなかで遂行されているのか、私たちはこうした指摘を深く胸に納めつつ、歩んでいかなければならない。


タグ:考古誌
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あきもと

どうも、お初です。
過去の「セミナー」を通観(通読)してないせいか、ご説は少々難解ですね。
読み解く作業が必要な文章を否定するつもりはありませんが、追求するテーマの重要性を考えると、ちょっともったいない気もします。
門外漢がでしゃばってすみません。
by あきもと (2008-04-11 12:51) 

五十嵐彰(伊皿木蟻化)

ようこそ、あきもとさん。拙い文章のため、意が十分に通じず恐縮です。
私が今回の記事を通じて述べたかったことは、以下の通りです。
私たちの考えていること(認識)は、私たちが書くもの、ここでは考古誌という名の発掘報告書の在り方に表れる(表象)というのが、セミナーにおける発題者による問題提起でした。だから現在の考古誌には、日本考古学の体質と言うべきものも表現されているはずで、そこから問題の本質を読み解かなければならないと考えました。例えば、現在進行中のデジタル・データの取り扱われ方。その理由をある人は、日本考古学が「歴史学の一員であるから」と説明します。勿論そうした側面も多分に作用していると思われ、私も常々そのように感じています。しかし私は日本考古学が何時の日か第1考古学の呪縛から解放されることを通じて、結果的に歴史学からも離脱する時が到来するにせよ、現在の日本考古学の体質を根本的に規定しているのは、それだけではないとも考えています。すなわち「受益者負担による事前調査」という枠組み(私たちの日常を拘束し、日々の思考をも規定している)をどのように変えて行くのかという問いかけ、日本という社会の中に存在する私たち一人一人の在り方こそが、私たちに問われているそして私たちが問うべき最も重要で根底的な問題だと考えています。
あきもとさんは、現在の日本考古学にとって、どのようなテーマがどのように重要だと考えておられますか?
by 五十嵐彰(伊皿木蟻化) (2008-04-11 20:45) 

あきもと

五十嵐さん、どうもです。
僕は30年近く前に学問の世界から脱落した人間ですから、いまの日本考古学にどんなテーマがどう重要か、などという問いには到底答えられません。
ただ、僕がいま直面する問題にからんで、この一年ほどの間に接した考古学を学び、いまも現役でその世界に関わっているはずの人々からは、学問的な対象認識について恐ろしいほど限定的、形式的(ちょっと言葉が違うかも知れませんが…)であることを感じました。
その大多数が行政内に身を置く人々です。
コームインとしての立場上、法や規則などに縛られざるを得ないのは理解しますが、そのことと学問的な追及姿勢とは同じではないはずです。
しかし、僕が会う人会う人、皆一様に似たり寄ったりのことを口走るわけです。
日本考古学とは、コームインのタガの中で育つべきものなのですか?
破壊を前提とした行政発掘にばかり身をやつし過ぎたのか、学究としての初心を忘れてしまった人ばかり目に付くのは一体どうしたことでしょう。
僕はそのような人々を学者とか研究者として尊敬することはできません。ただの処理業者じゃないですか。
30年近く前に学んだまま、現場に出て劣化損耗することもなく来てしまった青い青い僕には、この年月の間に一体日本考古学は何がどう発展したのか、と思わざるを得ません。
五十嵐さんが期待するものとはまったく無関係な愚痴を書き連ねましたが、僕がこちらのブログを拝見する動機は、上記のような堕落(言い過ぎかも知れません)した行政・学界に対し、何がしかの対抗意識形成に寄与していると感じるからです。
素人には理解しがたい用語や難解な哲学的文章も散見しますが、よく咀嚼して僕の思考の糧としていきたいと思っています。
これからもよろしくお願いいたします。
by あきもと (2008-04-15 00:45) 

五十嵐彰(伊皿木蟻化)

あきもとさんの言われる「コームインのタガの中の考古学」、これを言い換えると「埋蔵文化財行政」ということになるかと思いますが、ここにこそ現在の「日本考古学」の問題が集約されていると思います。
世の中には様々な学問がありますが、考古学ほど現代社会と密接な結びつきを有する学問も少ないのではないでしょうか。なぜなら考古学の主要な方法である発掘調査に要する費用の殆ど全ては、開発事業の経費から支出されているからです。しかし現在の「日本考古学」でそうした問題に関する議論は極めて希薄であり、そうした事柄に対する意識や関心も表立って表明されることは稀です。発掘調査の主体を担ってきた行政においても、考古学研究の主体である大学研究室においても。問題は、発掘-行政-埋蔵文化財と研究-大学-考古学の乖離、お互いに問題性を直視しない体質だと思います。何かにつけ学問と行政を分けて考える発想・思考方法。行政(埋蔵文化財)は研究(考古学)の側面を強化し、研究(考古学)の側は現代社会との繋がりをより密接に意識した研究を推進しなければならないのではないでしょうか。こうしたことに関連して1年前にも「考古学と埋文」と題した記事【2007-07-23】を書きました。
このような問題意識から、発掘調査の成果を報告する刊行物を単に「発掘調査報告書」とは呼ばずに「考古誌」と呼んでいるのです。「遺跡地図」というものが体現している不条理を<遺跡>問題として提起しているのです。
そしてその向こうには、40年前に沢本さんが「個別的な資料自体を物神的に偏重する傾向」あるいは「個別形態論的研究を自己目的化する傾向」と評した「第1考古学」体制が控えているのです。
現実は、ますます厳しさを増しています。行政における「調査研究」という4文字から「研究」が削られ「研究」は風化し「調査」に特化させられつつ、さらにその「調査」の条件・環境も低下の一途をたどっています。第2考古学も「蟷螂の斧」に過ぎないのではないかとの思いにかられることもままあります。しかしそれでも問題意識を有するひとりひとりが声をあげていくことが大切だとも考えています。
by 五十嵐彰(伊皿木蟻化) (2008-04-15 12:50) 

あきもと

五十嵐さん、愚痴に付き合わせてしまってすみません
投稿してから少々自己嫌悪に浸ってました。
なもんで、RSSでiGoogleから覗くだけにしてたもので、ご返事いただいていたのに気付きませんで、失礼しました。

過去の記事は追々精読させていただくとして、五十嵐さんのコメント中、最後の一行が一番大切なんじゃないかと思います。
いろんな部門でよく目にする言葉ですし、誰でも書きたがることですが、僕が学問から脱落した後いまに至るまで、困難に直面する度に感じることです。誰もが口にしたり書いたりできるからこそ、その言葉を実行し、実体化していくのがどれほど難しいことであるか、思い知らされてきました。
「沈黙は金」ではなく「死」以外のなにものでもありません。現在の社会情勢を見ると、なおさら強く感じます。言葉にできなくなってからでは遅いんです。
by あきもと (2008-04-29 22:03) 

五十嵐彰(伊皿木蟻化)

ベルナール・スティグレールという人が言っています。貧しい判断力や想像力しか有さない現代人の象徴的貧困を克服するには、「批評/批判(クリティーク)の復権が必要条件である、と。宣伝文句や仲間内のおしゃべりに過ぎないコメント、あるいは罵詈雑言、大言壮語、バッシングなどではない、普遍的妥当性に基づいた、創造的な対話関係を生み出すクリティークが求められているのだ、と。
by 五十嵐彰(伊皿木蟻化) (2008-04-30 21:20) 

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