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1938年・中国大陸 [近現代考古学]

「慶應義塾大学文学部史学科支那学術調査団」

「皇軍慰問を兼ねて支那学術調査団を派遣
本塾大学では此度皇軍慰問を兼ねて支那学術調査を行ふことになり、先づ文学部史学科の考古学班を編成派遣することになつた。一行は北支班及び中支班の二班に分れ、北支班は大学文学部講師大山史前学研究所長大山柏氏、大山史前学研究所々員大給尹氏、及び映画班として東京発声映画製作所々員木村信兒氏外二名のカメラマンを同行し、北京、彰徳、大同、周口店を巡歴し、中支班は大学文学部講師柴田常惠氏、同教授松本信廣氏を中心とし、大学院学生保坂三郎君、大学文学部史学科学生西岡秀雄君、同清水潤三君が之に随行し、上海、金山衛、杭州、湖州、松江、蘇州、南京を巡り、行程約二ヶ月の予定で、北支班は五月八日、中支班は五月十一日東京を出発することになつた」(『三田評論』1938年5月、第489号:39.)

「1938年5月8日 学術調査団として史学科考古学班を大陸に派遣。北支班・中支班の二班にわかれ、各地を巡歴(北支班、班長大山柏、五月八日出発、七月一日帰京。中支班、班長柴田常惠および松本信広、五月十一日出発、七月十九日帰京。帰京後、十一月十七日報告講演会、および同日より三日間、資料展覧会開催。中支班のうち、松本の率いる班は調査報告として、十六年十一月二十日、三田史学会より『江南踏査』刊行。なお、所要費用約八千四百円のうち、五千円は藤山愛一郎の寄付による)」(『慶應義塾百年史 付録』1969:366.)

「外壕の中に飛込んで見る。断面に骨や貝、土器等が沢山に見られる。これを追ひつゝ壕を廻る途端、新しく真白な人骨、手や足の骨が散乱し、頭蓋片もある。こゝで只今迄全く考古学的概念のみに支配せられた頭に、新戦場、其身が戦地にある認識が湧く。此骨は支那の無名戦士のそれに違ひない。其附近には小銃の薬莢も落ちて居り、雨の中、人つ兒一人もない、後丘は何んの表現もなく静かである。然し感想はこれまた一瞬で消へ、元の物質欲が猛然と起り、白骨を踏み越へ採集。今日は約束があり雨中のことでもあり、時間は一時間しかない。それにも拘らず、土器片、獣骨は採集しきれないほど沢山ある。段々と贅沢になり、良い品の撰び食ひが始まる。然し時間に追はれて、大急ぎで外壕を一巡した時には、両人で持ちきれないほど、しかも甲乙丙と色々変つた土器片、其他がある。」(大山 柏1938「北支行嚢(第三信)」『三田評論』第492号:34)
「後丘に到着の上、今日から作業中は丘上に日章旗を掲揚する。手近に居る橋梁衛兵には木村を連絡に派遣して、日章旗樹立間は此地で作業する旨を通牒。かくて感激の国旗掲揚も済んだ。今日は近くに百姓が沢山働いて居る。平素なら物見高く集つてくる所だが、燦として輝く我国旗の元には、中々寄りつかない。御蔭で盗難もなく、又見物人もなく、ゆつくりと発掘が出来た。」(大山 柏1938「北支調査行(第二回)」『史前学雑誌』第10巻 第4号:29.)

「我軍の占拠区域たる虬口閘北の寂寞たる有様に引きかへ、河向ふの繁華さは事変の反映を見出し難い。路上に充つる支那人が我々を注視する其眼の状態に拠つて、一切の事情が含らるゝを知るのである。」(柴田常惠1939「支那旅行記」『史学』第17巻 第4号:87.)
「軍の好意で小蒸気に乗じ、焦山に渡る。此の島にある定慧寺は著名な古刹であり、康煕、乾隆両帝も行幸あり、御筆の碑が数基存して居る。此の地に砲台ありし為多少戦火を蒙つて居るが、重要な史跡なりと雖も敵が利用せる以上、之が破壊されるのは当然で、之を利用した敵兵こそ文化の破壊者の名を負はねばならない。」(同:105.)

「現地の空気は慰問団の氾濫に反感を持ち、学術研究団たゞそれだけの目的で旅行して貰ひたいと云ふ希望の様である。其せいか、吾々の様に腕章を捲いた旅行団の姿を殆ど見かけぬ。上海の虹口地帯は要所々々に陸戦隊の番兵が鉄甲で立ち、吾々はその傍らを過ぎる時には黙礼をして行くのである。行き交ふ人は日本軍人か軍属のみ、支那人は寥々たるもので、それも所在哨兵に誰何され、猫の前の鼠のやうにおづゝしてをる。戦争には負けたくないものである。」(松本信廣1938「戰蹟巡禮」『三田評論』第490号:36.)
「トラックは西湖畔を走り、保叔塔を左に見て寶雲山々麓の日本陸軍々用地となつてをる平蕪地を西に疾駆し、古蕩の手前の蠶絲学校は我軍の爆弾を受けて炎上したが目下我特務兵が修築中である。それを護衛して〇〇部隊が警備してをる。その巡邏兵が交代にまた吾々の発掘の警備をして呉れるのである。剣光帽影の下、支那の「大地」を鋤とつて探り得るも事変なればこそである。」(同1938「戰蹟巡禮(第五・六信)」『三田評論』第492号:37.)


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佐藤正人

 五十嵐さんが、この大山柏らの「報告」をはじめて読んだのは、いつごろでしたか。わたしは、このブログではじめて読みました。
 坂詰秀一『太平洋戦争と考古学』で触れられている大山の「北支調査行」にかんする記述を読む限りでは、五十嵐さんの引用部分に示されているような極端な悪質さを知ることはできませんでした。
 「日本人の考古学の歴史」にかんする総括的通史叙述は、たとえば「北支調査行」を十分に解析することなしには、成り立たないのだと感じました。
by 佐藤正人 (2007-03-21 14:52) 

五十嵐彰

私の中で海南島での2006年の発掘を位置づけるためには、日本のある私立大学が1938年に中国大陸で行なった発掘を据えなければなりませんでした。ですから、今までもその時にどのようなことが行なわれたか、ぼんやりとは知っていましたが、しっかりと読んで、そこにどのようなことが書かれていたのかをはっきりと確かめたのは、今回が初めてでした。
坂詰1997には、「北支調査行」に関して、大山班の調査装備リストのみが延々と引用されていますが、そのことによって引用者の価値観が如実に反映されていることも確かめました。
見物人がいなくてゆっくりと発掘できて目指す資料が得られればそれでいいのか、結局、発掘調査というものが、誰のために、そしてなぜなされなければならないのか、このことを踏まえているかどうかだと思います。これは考古学に限らず、全ての学問について、そして現在についても言えることです。
by 五十嵐彰 (2007-03-21 18:50) 

sakamo

犯罪的侵略的考古学馬鹿…
知りませんでした。何も。慶応関係者の誰も知らないのでは。
知ったからどうだとは言えませんが…
伊皿木さんは、こうした調査の存在自体を、いつどのようにして知ったのですか。
by sakamo (2007-03-21 22:08) 

五十嵐彰

「江南踏査」は、「加瀬白山」や「下総加茂」などと並んで研究室が出した数少ない考古誌です。「三田の考古学」を語る、それも「時空をこえた対話」をするのならば、これこそ欠かせない試金石である、とこの言葉を聞いた時に考えました。
by 五十嵐彰 (2007-03-22 07:30) 

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