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『江南踏査』1941 [考古誌批評]

『江南踏査(昭和十三年度)』慶應義塾大学文学部史学科研究報告 甲種第一冊、
三田史学會、1941年11月、松本信廣.

「久しく善隣の友邦たりし日支両国が盧溝橋事件以来全面的抗争をなさゞるを得ない破目となつたことは誠に不幸此上ない事態であるが、此の莫大な犠牲に依り東亜の新機構が確立せられ、日支両民族提携への第一歩が踏み出されるならば戦禍を蒙つた無数の生霊も亦慰められることゝ信ずる。 たゞその戦場となつた支那中原に古へより蓄積せられた古文化資料が破壊散逸せられ、東洋文化の誇りたるべき考古美術の標本が毀損されたならば支那のみならず我国否全世界にとつても重大な損失である。  (中略) 
支那北部、中部平原の大半、及び南支の一部を占領しつゝある我国が逸早く其占領地区内の文化遺物が如何程迄戦禍を蒙つたか、また如何に保管せられつゝあるかを調査報告し世界の學界に知悉せしむる義務があると信ずる。此度の戦役開始せられると共に支那側及び列国の宣伝網は日本が支那の文化施設を破壊しつゝあり、支那の學術研究は停止せりと称し、針小棒大、事実は歪曲せられ、所謂「デマ宣伝」を全世界に伝播せしめたのである。戦争は破壊であり、事実今日占領地区内に於ける大中小學、及び其他の文化機関の一部が活動を停止してをることは否めない。然し新しき秩序がうち建てられんとする時多少の犠牲を忍ばれねばならぬ。今や新たなる体制に順応して新生の文化機関が其機能を開始しつゝある。公明正大、その行動に疚しきことなきを信ずる我国は、進んで占領地区内の新たなる文化施設再建に極力支援すると共に邦人の之に参与することが世界文化の為に一層寄与するに外ならぬことを天下に示すべきではなからうか。」(3-4)

本文160頁、写真図版48頁、英文要旨8頁、クロス装ハードカバー、正に考古誌の名に相応しい堂々たる調査報告の冒頭部分である。

ここから読み取れるのは、「莫大な犠牲」や「無数の生霊」よりも「古へより蓄積された古文化資料」や「東洋文化の誇りたるべき考古美術の標本」に価値を置き、それらは全て「東亜の新機構」「新しき秩序」「新たなる体制」の故に正当化されるとするロジックである。

1985年には、名著普及会から誤字脱字を正した正誤表を付した完全なる復刻版が出版されている。

中国大陸からもたらされた厖大な考古資料(「支那学術調査旅行中部支那松本班蒐集考古学標本目録」『三田評論』第495号:36-39.)および文献資料(「支那学術調査旅行中支松本班蒐集図書目録」『三田評論』第499号:40-42.)は、現在どうなっているのだろうか。その一部については、所在が確認できるのだが(慶應義塾大学考古学研究室1969『考古資料聚英』図版番号87,88,89,91など)、適切な処置がなされなければならないだろう。

本文は、1938年に『三田評論』に「戰蹟巡禮」と題して連載されたものを、1939年に『史学』に「江南訪古記」と題して掲載されたものを、さらに転載し、現地写真19葉、遺物の記載、「蒐集考古標本目録」と題された遺物目録解説、小山富士夫氏による「松本信廣教授将来の陶磁片に就いて」と題された解説からなる。

松本信廣氏については、『東亜民族文化論攷』(松本信廣先生古稀記念会、1967)、『稲・舟・祭 -松本信廣先生追悼論文集-』(1982)所載の「略年譜」・「著作目録」に詳しい。

「著作目録」に記載されている文献から、幾つかの文章を引用する。

「十二月八日の大詔煥発以来我が海陸軍の太平洋の東西に亘る広大なる作戦、及び其の齎せる赫々たる勝利の偉勲は実に吾々国民をして感奮せしむるものあるが、前線将士の勇戦を思ふにつけ銃後に於ける吾々の一層の責務を痛感せざるを得ない。一切の文化的産業的活動は挙げて此の戦争に於ける最後の勝利獲得の大目的に従属せしむる様変革せしむべきであるが殊に吾々をして緊急その必要を感ぜしむるものは新たに我が皇威に潤ふ南方地域に於ける経済的並びに文化的の再建設である。我国の大方針が万邦をして各々その所を得せしむるにありとせば是等の新領土の民をして充分にその固有の独立を回復せしめ、その利福を増進せしむれば足れりと考へられるが、然し久しき間英米文化の指導下にあり、その奴僕として教育せられた彼等南方民族を真に皇国民の協力者として立直らしむる為には其の指導教化の為め非常なる努力を必要とするのである。我が国民は広大なる大東亜の文化的再建設の為には筆とペンとを武器として挺身的の文化戦、宣伝戦の闘士として立たねばならぬ。此処に我国学問の此の国家的大飛躍に応じての大変革が嘱望せられる所以である。」
(松本信廣1942「大東亜戦争の民族史的意義」『外交時報』第893号:51.)

以下は「挺身的の文化戦、宣伝戦の闘士として立たねばならぬ」と自他を鼓舞してから、23年後の文章である。

「私は、かつて日本の軍部が満洲は日本の生命線だといってわれわれを戦争に駆ったことを覚えている。われわれは満洲どころかすべての植民地を失ったが、なお民族は生きているのである。日本の戦力を徹底的に破壊し、これを屈服させたアメリカは、中国を日本の手から救い出したがこれをほとんど全部、僅か台湾を除いて共産党の手に渡してしまったのである。今また東南アジアをまた同じ共産世界に変えようとする危機に面している。この趨勢をそのままにしておけば日本だけが東洋における一孤島となって取残されてしまうだろう。」
(松本信広1965「ベトナム問題をいかに処理すべきか」『みすず』第7巻 第7号:5.)

「救い出」されたり、「渡してしま」われたり、そこには、当地に生活する人びとの主体性に配慮する意識を伺うことができない。誰が、何を、どのように処理するのだろうか。いったい、どのような権利をもって。それから42年後の日本は、別の意味において「東洋における一孤島」となっているように思われる。

「「八・一五」以前には日本民衆は軍部・ファシストに欺かれていたのだ、と主張する日本人がすくなくない。しかし、ほとんどの日本民衆は、侵略による領土の拡大に利益を感じ、アジア侵略を肯定していた。日本民衆は、自覚的にアジアを侵略していた。
日本民衆が、過去のアジア侵略の歴史を知ろうとし、アジア侵略の責任をとろうとしないかぎり、アジアの民衆の解放と、日本の民衆の「解放」とは一致しない。いま、日本の各地には、強制連行・強制労働で殺されたアジア人の遺体が埋められている。日本人は文字どおり、アジア人の遺骨のうえで、いま、日々の生活をおくっている。そして日本で殺されたアジア人の故郷では、遺族が、かえらぬ同胞をまちつづけている。アジアの民衆にとっては、日本の侵略は、現在の事実である。」
(キム チョンミ1992『中国東北部における抗日朝鮮・中国民衆史序説』現代企画室:57.)


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