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「原位置」論本説 [考古記録]

『汐留Ⅳ』の批評に対して寄せられた福田さんのコメントに触発されて、歩きながら考えたことを少し記してみよう。キーワードは、「本来の位置」である。

かつて「出土状態そのもの」を重視して、「遺物の出土状態をよく記録する」ことが「原位置」として論じられたことがあった。しかし、今やここに改めて本来の「原位置」、かつて論じられた「原位置」とは位相を異にする「原位置」を論じる必要性が提起されるに至った。すなわち、構造物を構成している品々(部材)が、「本来の位置」を維持しているかどうかによって、考古資料の脈絡、私たちの認識が問われる事態であることが明らかにされつつある、という認識である。

「人は生活の中でさまざまなものを作り使い、あるは置き忘れ、しまいこみ、また棄てる。またいろいろな構造物を地上や地中に作り、それを使い、修繕し、毀し、またそのままに放置するか片付ける。ものは構造物たとえば住居の床に置かれ、炉にかけられ、ごみ穴に放りこまれ、道ばたに放置される。構造物にものがつめこまれたり、空になったり、ものとものが組合って構造物の一部となったり、ものを据えるために構造物の一部がこわされたりする。」
近藤義郎1981「発掘の話」『歴史評論』第373号:33)

考古資料について考えるとき、私たちは発掘作業などを通じて得られた目の前の「ものと構造物」から、その「ものと構造物」が作られて、使われている状態を想像している。土器片から全体の形状を復元するように。石器の使用痕跡の観察から石器の使われ方を復元するように。柱穴の位置関係から上屋を復元するように。

二つの場面、「ものや構造物」が作られ使われていた(機能中の)当時(「過去」)と「ものや構造物」が棄てられた(機能喪失後の)今(「現在」)の在り方、様相は、明確に区別されなければならない。それが、曖昧にそしてごちゃ混ぜに議論されてきたので、話がかみ合ってこなかったように思われる。

かつての「原位置」論は、遺物の検出時の「原位置」を論じていたわけだが、ここでは二つの場面における構造物に焦点を当てて考えてみよう。
過去のある時点において、「いろいろな構造物を地上や地中に作り、それを使い、修繕し」ている。「ものとものが組合って構造物の一部」となるのが、「部材」である。
廃絶、放置、腐敗、風化、破壊、破損、崩壊、倒壊、焼失、整地、流出、移動、堆積、埋没・・・
「今日我々の前にあるものや構造物は通常このような試練を経て、まさに「残存」したものである。」(同:34)

こうした構造物の「残存」の仕方には、二通りの在り方がある。
1.「本来の位置」を保った「残存」
2.「本来の位置」を失った「残存」

地面に穿たれた「穴」は、多くの場合に「本来の位置」を保っている。だから、発掘現場を見れば「穴ばかり」ということになる。あるいは、意図的に盛り上げた「土盛り(高塚、古墳)」といった構造物である。
そして、改変を免れた「穴」あるいは「土盛り」に含まれている「構造物の一部(部材)」もまた「本来の位置を保った残存」である。
炉に据えられた炉石、柱穴の中の礎石とその上に残る柱材の一部、古墳の石室、上水樋溝に埋設された木樋、整地された埋土に覆われたプラットホームの基礎などなど。
これら「本来の位置を保った」構造物の一部を「残存物」と呼ぼう。

一方、様々な要因によって、「本来の位置」を失った構造物の一部も数多い。その多くは、地上部分に露出して構築されているものである。
瓦などの屋根材、窓枠・窓ガラスなどの壁材、碍子・電線などの電気施設、照明器具などなど。
これら「本来の位置を失った」構造物の一部を「分離物」と呼ぼう。

ある人は、「残存物」を「遺構」と呼ぶ。そして「分離物」を「遺物」と呼ぶ。
ものが見出された「本来の位置」を重視して。

しかし、「残存物」が「本来の位置を保って」いたのは、ある意味「たまたま」だったのではないだろうか。
たまたま「竪穴住居」という掘り込みを有する床に炉が設けられたから「本来の位置」を保っていた炉石。
たまたま火砕流に覆われたから残存していた神社に至る石段の数々。
たまたま後世の削平レベルより低い位置に構築されていたから残存した大名屋敷の表門基礎や停車場の入り口階段のステップ。

だから、「残存物」を構成する一つの煉瓦と「分離物」である一つの「煉瓦」は、「ものそのもの」としては何の区別もない。
しかし、「もの相互の関係」という面においては、大きな違いがある。

そこをどのように考えるか。

ちなみに、「本来の位置」があるものが「構造物」であり、その残存形態が「遺構」と「部材」である。そして「本来の位置」がないものが「道具」であり、その残存形態が「遺物」である。


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福田

一度に受け付けてもらいないみたいですので、分けます。
う~ん。用語が増えましたか。「残存物」と「分離物」。「残存物」には五十嵐さんの言う「遺構」と「部材」が含まれ、「分離物」には「部材」しか、そして、いずれも「構造物」の範疇だということですか。そうすると「構造物」と「残存物」との関係、あるいは「残存物」が他に何も伴わないいわゆる「竪穴」だけだとすると、「構造物」と「遺構」と「残存物」は同じことになってしまいますが・・。
ベッカムだかオッカムだかというオッサンの剃刀、ということもありますので、ここは少なくまとめるために、まず考古学的調査の対象の範囲を決めておきます。古いほうはひとまず置くとして、新しいほうの対象は、一応、その施設の本来の機能が終了(廃棄)されたモノ、例えば、現在使用中(機能中)の家(施設)は含まない、ということでいいですか(未発掘の古墳で石室が開口している部分を見学者に見せるという機能は、その古墳本来のものではないので除外する、ということになります)。
さらに、現在まだ住んでいる途中の民家の床下を民家調査の一環として掘る場合も想定されますが、これは裁判のための聞き取り調査が、聞き取り、というその方法は同様であるにしろ、民俗調査と呼ばないのと一緒で、掘るという行為が存在したにせよ、その施設(民家)全体を考古学的に調査した、とはいわないものとします。
また。殺人犯の自供に基づいて行なわれる死体遺棄現場の発掘も犯人が最初に掘ったプランをまず確認し、半裁してセクションをとり、さらにその死体の詳細な平面図を作成してからでないと死体を取り上げない、というのでない限り、考古学的な調査とは呼ばないことにします(犯罪考古学という学問がどのようなものであるのか良く知りませんが、仮に先のような詳細なデータをとる行為を指して学問としての犯罪考古学というのなら、それにどれほどの意味があるのでしょうか。まさかこれらの事例を収集することによって、たとえば、どこどこ出身の犯人群には死体遺棄の仕方に共通点が見られるとか、を研究するのですかね。まあこの場合でも、過去の事例であれば、死体遺棄なのか埋葬なのかは判別困難な場合もあるでしょうから、一概に時代で分けるわけにも行かないのでしょうけれど、突き詰めると難しい問題に行き着きそうです。脱線しました)。
つまり、その家に住み続ける、という行為が存続する限り、その状態を把握するという作業には考古学的な調査はなじまない、ということです。換言すれば、一時的にせよ、つまり調査のために一度施設(例えば石室など)を解体してまた復元する例外的な場合はあるにせよ、それでも少なくとも一度は対象の破壊を伴う行為(多くの場合は永久に破壊してしまいますが)を、しかも多くの場合、それを地中に埋蔵されている対象(高塚や支石墓などの地上物に関しては、例えば道祖神や庚申塔などの石仏調査とどう異なるのか、という問題もあります。もしかしたら、古墳は考古学的調査の範疇でないのかも知れません。さらに、墓にかんして言えば、構築から何百年経ようがその墓穴が死体を保護しているというその機能は存続しているのではないか、つまり墓の機能が喪失するとはいかなる事態なのか、という難問も存在しますが)に関して行なう行為を、考古学的な調査というふうに一応定義します。つまり、端的にいえば、すでにその本来の機能を喪失している施設を対象として調査する行為を考古学的な調査と呼ぶ、ということで一応一般化しておきます。
そうすると、私達が直接的に経験可能な研究対象は、本来機能していた施設つまり構造物そのものではなく、その機能停止後の施設、文字通り「遺構」ということになります。五十嵐さんの言う「構造物」という概念は、端的に二次的な説明概念、つまりあらかじめこれを想定することで、何らかの研究対象を合理的かつ還元的に説明しようとする観念的な所産かと愚考いたします。私達はそれがどんな段階の残存状況を示すにせよ(たとえ、丸ごとその施設が埋まっていたとしても)、私のいう「遺構」から出発するしかありませんし、順序からいえば、原理的にはこれ以外の何者にも頼るわけには行きません。
by 福田 (2006-11-28 15:22) 

同

ここで私の初発の問題意識を再び述べておけば、たとえば、近代の機関車庫の壁の一部と思われる遺構が見つかったとして、私見ではそれはそのまま丸ごと「遺構」です。そしてさらにその脇のゴミ穴から一点の煉瓦が出土したとして、従来はこれを「遺物」として扱っていたわけですが、この煉瓦はいったい遺物なのか、ということだったわけです。この煉瓦も私にとっては直接経験可能なモノですが、これを定義するには先に見た私にとってのもう一つの経験的事実つまり機関車庫の壁(遺構)を参考にすることになります。私はここでこの煉瓦を「施設部材」と定義しましたが、それは検出された機関車庫の壁(遺構)が五十嵐さんの言うように、最初から、構造物=遺構+部材(五十嵐2004f)と認識されていたからではありません。なぜなら「構造物」などという、いまだ機能が継続していると想定される物体などは、どこにも存在しないのですから。
ここのところが肝心なのですが、私はゴミ穴から見つかった煉瓦を定義しようとして、何をするかといえば、この煉瓦を持ってトコトコと時間をかけて壁(遺構)のところまで歩いてゆき、そしてこの遺構を凝視することで、なあんだこの煉瓦はこの壁(遺構)を積み上げている一要素なんだ、とはじめて発見するわけです。するとその発見と同時に(あるいはやや遅れて)この壁(遺構)のほうも、施設基盤(掘り方の穴)+施設部材(煉瓦)の施設(五十嵐さんの言う構造物)として私の頭の中ではじめて観念的に認識されるのです、私にとっては。検出された壁とゴミ穴の中の煉瓦は同時に認識可能ですが、施設(構造物)の一部を構成していた煉瓦Aとその後この施設が機能を停止した以降何らかの原因でゴミ穴に廃棄されることとなった煉瓦Aが同時に存在することは、当然のことながら不可能で、必ず時間的な経過を経ておりますので、こちらの認識もそれに従って時間的な思考経過をたどらざるを得ないのです。煉瓦が施設(構造物)の一部だ、ということ、それは五十嵐さんの構造物=遺構+部材にしても私の遺構=施設基盤+施設部材+施設部品+施設素材にしても、その醸成は具体的で直接的な経験を経た上での二次的な所産なのだと思います。なぜなら、過去に機能中していた施設には私達はどうやっても触れるわけには行かないのですから(現存して今も寺として機能している、たとえば法隆寺のような施設の扱いには注意が必要だとは思いますが、これは先に示した条件から考古学的な調査対象からは除外されるように愚考いたします。建築学とかの対象ですかね。)
ベタに書き始めてしまったのでまとまりがなく穴だらけでしょうが、今日はこのくらいにしておきます。
by 同 (2006-11-28 15:24) 

五十嵐彰

「従来、煉瓦や瓦は先史時代の概念に従って「遺物」(移動可能なモノ)とされてきたが、これを近世および近現代の「建物施設」をモデルとして「遺構」と捉えることで、逆に先史時代の「竪穴住居跡」のほうを「建物施設」の欠損形態として把握することが可能となろう。」(福田2006:63)
瓦は単に「「遺物」(移動可能なモノ)とされてきた」だけではなく、「遺構」として扱われる場合(江戸遺跡研究会編2001)もあり、小野山さんが例として挙げた塼仏と共にある時は「遺物」とされ、ある時は「遺構」とされるといった「両義(ヤヌス)的状況」にあることを指摘しました(五十嵐2004f:287註2参照)。また「遺構」「遺物」についても「本来の機能で使われていないもの」という小野山さんの言葉を引用し、さらに近藤さんが構造物としての「住居」という言葉と遺構としての「住居跡」という言葉を意識的に使い分けていることをも指摘しました(五十嵐2004f:281,286註1参照)。ですから、前掲の引用文(福田2006)について言えば、殆ど違和感がない、というより、私の意図をそのまま繰り返し再説していただいた、という気すらするのです。
ただ細かな用語上の差異、例えば構造物か施設(建物施設)か、あるいは部材か施設部材・施設部品かといった点は別にして、そのうちの一番大きな違いは、「遺構」という用語の使い方だと思うのです。そして、その部分に関連して両者には、考え方というか戦略的思考方法に微妙な違いが存在することも明らかになってきたような気がします。
「考古学で使う諸概念が近代の歴史事象に関してどのような有効性を発揮し、またその課題は何なのか、一方、近代以前の諸事象(たとえば縄文時代の社会や文化)に対してこれらの概念使用がどのような不都合な面をもち、そしてその解決法はあるのか、という点を検討すること」(福田2005『方法としての考古学』:5) 
私は「考古学で使う諸概念」が、「近代の歴史事象」に「どのような有効性を発揮」するかを検討するのではなく、近代以前の諸事象を対象に用いられてきた「考古学で使う諸概念」(言い換えれば先史考古学的概念もしくは先史的考古学概念、両者の差異も検討課題)が近代以前にではなく、近代の歴史事象に対して「どのような不都合な面」があるのかを検討することを通じて、それら「考古学で使う諸概念」を揺るがし、隙間を空け、さらには転覆させ、新たな概念群を立ち上げることを目標としています。ですから、「遺構」という言葉についても、現時点では「土地改変痕跡」としての「穴」や「盛土」として限定的に定義しています(「換骨奪胎」という形には固執しません)。「遺構」という用語も、<遺跡>という用語と同様に、新たな用語/概念を得ることで、最終的には考古学的な根本的な変革につながるだろうという見通しを持っています。しかしながら、こうしたやりとりを通じて「今まで疑われることのなかった先史的<遺構-遺物>体制」が攪乱され、不安定さを増していることは確実であり、そのことの意義は強調されてしかるべきだと思います。
なお、次回の第2考古学セミナー(12月20日)には、福田さんをお迎えして、さらにこうした議論を深め皆さんと共有したいと考えています。参加を希望される方は、ご連絡頂ければ(iga55@ja2.so-net.ne.jp)、折り返し詳細をお知らせいたします。
by 五十嵐彰 (2006-11-29 19:30) 

福田

先にも述べたように、詳細は後日ペーパーに書くとして、3点だけ触れておきます。
1、まず『汐留遺跡Ⅳ』の私の文章にかんして。報告(近代編)内容の解題程 度の粗雑な、汐留遺跡に即した文字通り即自的なものなので(従って論文でないとはいえ、しかし)、ご指摘のとおり、広く先学の業績などに触れるところがなかった点。さらに、これもご指摘のとおり、先史主体の「遺構」「遺物」概念の改変という視点を、五十嵐さんのご論文(五十嵐2004f)の主旨だけを早上がりに理解し(しかもその出典を明記しなかった点)、その細かな検討を怠った点。以上3点にかんして、率直に自己批判いたしたいと思います。
2、次に拙著『方法としての考古学』の一部を引用しての、(私とは正反対とされる)ご自分のお立場の表明にかんして。これに関しては、拙文の文脈理解に誤解が指摘可能であり、必ずしも、この文脈では正反対の意味にはならない(異なる意味で一見正反対とは見えるのですが)ことを指摘しておきます。すなわち、拙著の文章の文脈は、日本の近代を背景にして生まれてきた近代的色彩を浴びた個別日本の考古学的概念にかんして、近代主義的概念としてその限界性を指摘し、それは近代以降の考古学には有効であっても、これを近代以前に使用する場合には不都合であろう、という主旨なのです。私は考古学概念の近代性を指摘し、その性格に留意すべきことを述べたまでで、ここでは日本考古学の概念一般の優劣状況(先史主体というの状況)を指摘したわけではないのです。言ってみれば、私は、ここでは先史考古学のほうを心配しており、考古学における近代主義を批判しているのです。多分、近代以降のほうを心配している(誤解なら指摘して下さい)五十嵐さんの意見との関係は、対象的というより、斜めにクロスして、ともに従来の考古学概念を改変しようという立場として一致すると愚考いたします。私は、近世・近現代の遺構・遺物の方が様々な点で今後の考古概念の立ち上げに適しているから重視しているのであって、加えて、考古学が近代の所産のゆえに、どうしても近代主義はまぬかれないとは言うものの、その点を十分に考慮しつつ、逆に考古学に近代からの視点を持ち込むことも重要だ、とも主張いたしました(ここのところが微妙なのですが)。しかし、それは必ずしも近現代考古学のほうを先史考古学より優先せよ、というものではありませんし、そのような優劣的観点は持ち合わせておりません(ただし、現在の文化財行政および学界の先史優先主義ゆえに、近現代考古学の意義を意識的に強調したり実践したりは今後もいたしますが)。それぞれの分野にはそれぞれに歴史学に有効な視点があるでしょうから。
3、「遺構」にかんして。どうも、ここのところが論点になりそうなので、整理しておきます。私は、「遺構」とは大地に設置された構造物(施設)が機能を終えて廃棄された状態のモノであり、「遺物」というモノとともに私たちが実際に認識できる直接的な研究対象である、と考えております。「構造物」とか「施設」というのは私にとっては、機能中の物体であり、それは観念的な第二次的な所産であり、直接認識できないものです。従って、私が「遺構」の範疇を(施設基盤)(施設部材)(施設部品)(施設素材)の4つに分けた際にすべてに「施設」の名称を冠したのは、検出された「遺構」から抽象された、本来機能していたであろう「施設」を想定した場合には、その物体は(施設基盤)(施設部材)(施設部品)(施設素材)からなっていたであろう、ということなのです。ただそれだけのことで、細かな点は省きますが、これによって従来の先史中心の遺構の概念を換骨奪胎し考古学全般に適用可能な充実した内容にしたいと思っているだけです。どうもその辺の理解に齟齬がありそうなので(換骨奪胎にご賛同いただけないようなので)、五十嵐さんのいう「先史的<遺構-遺物>体制」の撹乱とは、最終的にどのような事態を目指してのことなのか、具体的に(例えば「遺構」や「遺物」という用語の不使用とか、あるいはこれに「部材」の概念を加えるとか)教えていただけますか。
 以上です。
by 福田 (2006-11-30 00:25) 

五十嵐彰

丁寧な応接、感謝です。
認識論上の問題および「遺構」用語の適用範囲に関して課題を頂いたということで、今回は引き取らせていただきます。お蔭様で、行き詰っていた「遺構・遺物」概念についても新たな展望が開けてきました。後日の件も含めて、今後とも宜しくお願いいたします。
by 五十嵐彰 (2006-11-30 20:40) 

福田

いつもお世話になっているので、本当に迷いましたが、やはり、ここは言っておかないといけないと思いました。論争というものは、誌上であれブログ上であれ、当事者にとって大げさに言えば、全ての人格とその人の学問をかけたそれこそ真剣な営みだと思っております。そして、その営みが単なる路上でのケンカや通り魔的な暴力と異なる点は、これが、ちゃんとしたリング上で適切なルールに則って行われるはずの行為だからです。
数々の論争を経験している五十嵐さんに論争のルールなどそれこそ「釈迦に説法」でしょうけれど、今回の「引き取らせていただきます」という言葉を見ると、やはり一筆取らざるを得ませんでした。
まず、論争で絶対にやってはならない点は、批判や反論が当該の論点から遠くはずれて、その人の性格や身体的特徴に及ぶ場合です。論争中、その兆候が現れた場合には、双方どちらかが即座に論争を打ち切っても一向に構いません。この場合にはどちらかがかなり感情的になっていることが予想されますが、いくら感情的になろうとも(人間ですから感情的には大抵の場合なりますよ)、このルールは絶対厳守です。そうでないと、論争が途端に品の無いものに脱してしまいます。それから、批判や反論がその人の思想信条に及ぶ場合も注意が必要ですが、例えば土器の分類という行為が、単なる考古学上の作業でなくして、その人の持つひとつの世界観の現れであるという点を考えれば、批判や反論の論点がそこまで及ぶことは致し方の無いことだと思われます。その他、相手の言っていることが図星なら、へんに誤魔化そうとせず、率直に相手を認める、とかいろいろありますが、五十嵐さんとのケースでは次の点が重要です。
すなわち、それは、端的に言って、論争においては、他者に対して最初に批判行為を開始した人には、その論争を終わらせる権利はない、という原則です。最初にAという人がBという人を批判したとして、Bが黙殺(納得でもいいのですが)すれば、この論争は即座に終了します。しかしBがAに対して反論したとすれば、次にAはこの反論に答える義務があります。そして次の段階で今度こそBが納得もしくは何らかの理由で沈黙を守れば、それでこの論争もそこで終了します。しかしBがさらにAに対して反論すれば、AはこのBの反論にはどのような形でも(例えば、捨てゼリフでも構いません)答えねばなりません。
つまり、いずれも場合も、論争を終わらせる権利を有するのは批判された側の人間すなわちB(の沈黙)なのです。論争はBの沈黙(その内容は納得かもしれないし、諦めかもしれないし、もう面倒だ、かも知れませんけれど、いずれにせよ)でしか終了しません。最初に他者を批判したAは、先に述べた性格批判などのルール違反の行為がない限り、Bが納得するまで、どこまででもこの論争に付き合わねばならないのです。
論争を仕掛けられたBは、この論争を終わらせる権利を持ちますが、論争を仕掛けたAにはBの反論に答える義務しか与えられておりません。つまり、論争という営みは、仕掛けたAの言葉ではじまり、そしてやはりAの言葉(主張もしくは応答)で終わるのです。 論争という営みは暇つぶしでもなければ、遊びでもありません。最初に他者を批判するという行為に及ぶ人には、このような覚悟が必要だと思います。小心者の私が、余程のことがない限り、また、余程の確信がない限り、公然と他者を批判しない所以です(陰ではグチグチ言いますけれど)。
従って、最初に私の文章に批判の労をとられた五十嵐さんには、この論争を終わらせる権利は、残念ながらありません。「引き取る」も何も無いのです。これでは柔道でいう技のかけ逃げか、路上の通り魔か、ということになってしまいます(すみません、例えが悪くて、他意はありません)。私は五十嵐さんとの論争において、珍しく頭を使い、いろいろ考え、これを真剣に行ってきたつもりです。しかし、今は、屋根の上に誘われたと思ったら、突然、梯子がはずされていたというような気分です(今は自己をさらけ出した、という羞恥心が徐々に頭をもたげて来ております)。
今回初めてブログというリングで論争らしきものを経験させていただき、五十嵐さんには感謝しておりますけれど、その一方で、ブログとはそういう場なのか、という不信感も残念ながら抱いてしまいました。ブログというシステムは、たいして深く考えた思考でもないものが、そのまま外に流れていくわけで、かなりリスキーな部分がありますね。しかし相手の考え方だけをしゃべらせておいて、自分の肝心な点は、後日、私的な空間で、というのはやはりフェアではありません。少なくとも、昨日の私の質問には、五十嵐さんにはこのブログ上において答えてもらいたいと思います。そうでないと、形にならないと思います。
by 福田 (2006-12-01 00:38) 

五十嵐彰

振り返ってみると多少論点もずれてきているように思われましたので、「何も今この時でなくても、もう少し時を置いてから」という思いを、「今回は」という言葉に込めたつもりだったのですが。そして「次回」は、決して「私的な空間で」というつもりも全くありませんので、その点も含めてご承知おき頂ければと思います。
コメントを読みながら、つくづく人の感じ方というのは難しいものだと思いました。それは、「論争を仕掛けたA」と「論争を仕掛けられたB」をどのように位置づけるのかという点です。私は、ブログ【061121】で福田2006を批評いたしました。そこでは、私がAで、福田さんがBとされます。しかし、私が福田2006を批評したのは、福田2006が五十嵐2004fを批評したと(明言はされていませんが)「論争を仕掛けられた」と感じたからなのです。そして、その点は私の独り善がりの勝手な思い込みではなく、福田さん自身も11/22のコメントにおいて福田2006が五十嵐2004fの「問題意識に触発された点にあったこと」を確認されていることからも明らかにされたかと思います。ですから、私の中では、「汐留Ⅳ」と題した【061121】の記事は、五十嵐2004fに対する応答である福田2006に対する応答という位置づけになるのです。すると「仕掛けた」のは誰であり、「仕掛けられた」のは誰か、という議論は簡単に規定できるものではなく、さらに「仕掛けたA」には返答の義務しかなく、「仕掛けられたB」にのみ打ち切る権利がある、という論争の当事者に権利・義務関係の上下関係を設定するルール?も厳密に適用するとしたら、そもそもの規定段階で堂々巡りになるような気がするのです。
話しを本題に戻して、最初の論点のずれについて述べると、私は最初の【061121】で、福田2006において「「施設」と「遺構」の使い分けが、明瞭でない」と述べました。しかし、そのことに対する明瞭な返答はなく、11/22のコメントにおいても「「遺構」(施設と言ってもいいですが)」と述べられていました。ところが【061127】に対する11/28のコメント以降は、私たちが直接的に経験できる一次的な所産が遺構であり、施設(構造物)はそうした「具体的で直接的な経験を経た上での二次的な所産」というように規定されました。これは、福田2006における「「遺構」とは「施設」と同義といえる」という言明と矛盾していませんか? そして、もし「歩きながら」用語の定義が変更されたのなら、どこでどのようにどのような理由によって変更したのか、もう少し明らかにして頂ければと思います。
また私は、最初の【061121】において、福田2006における「施設部材」と「施設部品」の概念規定が曖昧であること(「明確な一線を引くことはおそらく困難であろう」)、そしてその設定の意図が示されていないことを述べました。しかし11/22のコメントにおいても「明確な一線」は示されず、「土管や鉄管がゴミ穴に廃棄されていたとすれば、それは「施設部材」もしくは「施設部品」ということになります」とされただけでした。「土管や鉄管」は、どっちなのですか? ですから、私は11/22のリコメントにおいて「「施設部材」と「施設部品」についても、概念定義がやや変更されているように拝察しましたが、その区分の意味(区分する理由)が今ひとつはっきりしてきません」と念を押したのです。
こうしたある意味、細部にわたる議論を(しかし極めて重要な論点を)、セミナーという場において(決して「私的な空間」ではありません)、突き詰めたいと思っていたのです。そしてそこで得られた成果を、拙いブログを通じて、多くの人と共有していければと考えていました。
by 五十嵐彰 (2006-12-01 12:10) 

青田石

報告書の「論」と論文の「論」は違っていてもよいのがの常識なのですか?
論争を始めたら、AもBも勝手に終わらせる権利なんて無いのではないですか?権利とか義務をもちだすのならば。自分の行ったことには自分で責任を取らなければいけないとおもうのですが。ブログだろうとペーパーだろうと。
by 青田石 (2006-12-02 19:22) 

福田

10日間ほどコンピューターの無い世界におりましたので、コメントが遅れました。なるほど、双方の思惑がややずれてきているようです。私はご指摘の通り、「遺構」と「施設」の違い、および「施設部材」と「施設部品」の概念上の違いを明らかにしていません(まとまっていないと言うのが本当のところです)、セミナーへのお誘いをお受けした折、この辺の細かい問題に関しては、私もセミナー内の討論で自分の意見を述べようかと思っておりました。したがって、その点に関しては五十嵐さんと同意見で、これに関する論議は打ち切ってもらっても一向に構いません。そのような細部までブログで述べる必要はないでしょう。
このブログで、私が五十嵐さんからお聞きしたかった点、そして、その五十嵐さんのお答えが、多分このブログを見ている人にある種の思考を強いること(もちろん、私にとっても)になるであろう最も重要な点は、「先史的<遺構-遺物>体制」を撹乱させる、その最終的な戦略についてだったのです。この点だけは、セミナーよりは影響力が大きいであろう?(と期待した)ブログでお聞きしたかったために、先の「権利」やら「義務」やらと、やや大人気ない仕儀と相成りました(後日、セミナーでお聞かせ下さい)。やはり、最初の迷いどおり、手前一匹の身の丈で可能なこと以上の効果を期待するなどという、きわめて傲慢かつ不慣れな戦術はとるべきではありませんでした。
by 福田 (2006-12-09 22:30) 

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