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ある中国人考古学者の生 [近現代考古学]

中国社会科学院考古学研究所に務め、定年後も西安の大明宮の発掘研究を指導しているある老考古学者の一生が紹介されている(野田 正彰 2007 「虜囚の記憶を贈る(第三回)無視と黙秘を超えて」『世界』第771号(2007年11月号):202-211.)

瀋陽の日本語学院商科を卒業後、済南の北西、禹城県文昌閣小学校で教師として働いていた1944年、共産党支部が小学校にあるとの嫌疑により、38人の教職員が逮捕・連行される。監獄における2ヵ月半の拷問の末、収容所に移送。列車で青島、船で下関、さらに列車で石川県七尾へ。

「400人をひとつの長屋に収容。なかは二段の板床になっており、4人ごとに寝る。食事は小麦を団子にして蒸す。一食二個だけ。四個でないと食べた気がしなかった。朝6時に起床して朝食。8時に収容長屋から歩いて港湾に着き、労働。12時、昼食。6時、夕食。それからさらに3時間、4時間と働かされた。(中略) この重労働、この食事では、生きていかれない。だが監獄よりはましである。しばらくは生きられる。日本が敗戦すれば、生き残れる。いつまで生きられるか、いつ日本敗戦か、命の天秤の上にいた。」(209.)

敗戦を知らされず8月20日まで働かされ、9月13日にようやく伝えられる。12月3日七尾から金沢、下関、12月8日に塘沽上陸。その後、働きながら北京大学で聴講生として学び、考古学研究所の研究員となる。

「日本の考古学者の多くを知っている。西安の大明宮の発掘と聞くと、日本の研究者はすぐに行きたいと希望する。そんな学者たちに、「日本へ連れさられ、強制労働させられたことがあった。」と語ると、驚いて「残念です」と言われるだけ。それ以上、聞いてはこない。」(211.)

「人間集団が加えた極限の状況から生還した人に対して、周辺の人びとはどのような態度をとるのか。
多くの人は、事実を聞こうとする前に、おおよそ酷いことがあったであろうと思った時点で、当惑し、遣り過して別の話題へ移って行こうとする。その結果、意図しなくても相手の最も重要な体験を無視し、信じがたいという拒絶を伝え、孤立と忘却を強いることになる。
人間が、あるいは自分たちが属する社会が、これほど残酷であることを認めるのは苦痛である。認めたとき、「人間は?」、「私が生きてきた社会とは?」という疑問が生じ、精神的亀裂が走る。この亀裂にこそ、人間や社会についての欺瞞に満ちた通常の認識を超える契機があるが、多くの人は苦痛の予感によって亀裂を防御しようとする。とりわけ日本社会では事実を直視することを許さず、「美しい日本」といったステレオタイプな社会観が強要されている。」(202.)

「馬得志さんは日本の考古学者を批判しなかった。私は「残念です、と言うくらい」と低い声で話し、口をつぐんだ老考古学者に深いあきらめを感じた。」(211.)

「研究および研究をとりまく外的諸条件からする「必然」の道が、以上のごとくであったとすれば、他方、研究者の主体的思想はどこにあったのだろうか。学問を現実から引きはなし、現代史にかかわりない態度で、現実に関係のないことを研究するのが、研究者の正しい在り方である、つまり、学問のための学問こそ、その科学性を保証するただ一つの態度である、と考える当時の学問一般の考え方が、考古学者をも支配し、また考古学者をして、みずからの現実逃避の合理化の手段たらしめていたことは明らかである。」
(近藤 義郎 1964 「戦後日本考古学の反省と課題」『日本考古学の諸問題』:314.)

「当時(戦時中:引用者)の学問一般の考え方」が、「当時」に限定されない、現在においてもまた至る所に見受けられる点に、「反省と課題」の困難さがある。


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アヨアン

初めまして。アヨアンと申します。
このブログにもこういう内容のものがあったのは、とても嬉しいと思います。
時々拝見したいと考えておりますので、宜しくお願いします。
by アヨアン (2007-11-23 16:51) 

五十嵐彰

ようこそ、アヨアンさん。
それぞれの人の生には、それぞれの歴史が、他者との関わり方が刻まれています。現実を見据えた学問を、考古学を形成していかなければなりません。そのときには判らなくても、理解されなくても、何時の日にか、振り返ってみたとき、真実なものであれば、それはそこにしっかりと残っていることでしょう。
こちらこそ、今後とも宜しくお願いします。
by 五十嵐彰 (2007-11-23 21:30) 

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