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相模原市立博2005 [考古誌批評]

相模原市立博物館考古資料調査報告書 古淵B遺跡旧石器時代資料再整理調査報告書

「「発掘調査費用原因者負担」についての司法判断の中で、緊急発掘にかかる調査費用の原因者負担は、「文化財保護法の趣旨の範囲で、不当に過大ではない」ことが条件とされた。このことは、いいかえれば、「原因者にとって不当に過大」のことがらであっても、遺跡の保護を進める上で必要なことであれば、文化財保護行政や、文化財の保管主体たる博物館が、主体的に取り組む必要があるということであろう。」(木村 衛・(川本 真由美)2002「遺跡出土資料の再整理について」『相模原市立博物館研究報告』第11号:58)

こうした趣旨に基づき、1988~89年に発掘された旧石器資料の再整理作業「資料の探索→遺物台帳の作成→文化層検討・設定→遺構・遺物の考察→報告書の刊行」がなされた。
ある意味で「稀有な事例」である。

ある旧石器資料報告のある石器集中部に関する記載において、「近接する遺構はなく」という文言を目にしたときの違和感が発端であった(五十嵐1999e「旧石器資料報告の現状(1)」『東京考古』第17号:21)。報告者によって、ばらばらに分解された個別の「集中部分布図」を見ているだけでは、全く気が付かない。しかし、それぞれに分解された「個別分布図」を水平方向・垂直方向に重ね合わせて復元してみると(これがまた大変)、「近接する遺構はなく」どころか垂直的には「重複する遺構さえあった」のであった。

こうしたことから旧石器研究で「文化層」と呼ばれていた操作単位の在り方を検討したところ、関連用語の相互関係(文化層・包含層・自然層・生活面)はもとより、「文化層」という用語自体が、旧石器研究とそれ以外で大きな齟齬が生じていることが明らかになった(五十嵐2000e「「文化層」概念の検討」『旧石器考古学』第60号)。「旧石器的文化層」(旧石器研究において用いられている「文化層」という用語で示される区分単位)は、「一定のひろがりとあつさをもつ堆積物」である「層」(layer)ではなく、「研究者が様々な分析手法を用いて同時存在と推論した石器資料のあつまり」でしかなく、「連関的集合体(associated assemblage)」(角田1968:p174)とでもいうべき存在である」(五十嵐2000e:52)ことを示した。

「しかし、旧石器時代における文化層と言う用語は、既に広く日本考古学において慣用化していると思われる。また、文化層を遺物群とよびかえる積極的な意味が、一般的な文化層と旧石器時代の文化層の違いを認識することであるならば、文化層を遺物群と呼びかえることで現状を整合させるのではなく(吉田編2003)、その設定過程を個別遺跡ごとに明示化させ、信頼性を具体的に示すとともに、その方法論の洗練化を図っていくことを通じて、旧石器時代における文化層概念の認識を共有化していくことにより、今後より有意な成果をもたらすと主張したい。」(坂下貴則2005「文化層設定の方法論的検討」『古淵B遺跡旧石器時代資料再整理調査報告書』p.78)

「慣用化」しているかどうかが、用語の適切さ、使用を継続することの根拠には、成り得ない。「慣用化」していようといまいと、不適切なものは、様々な立場の人々との対話を通じて改めていく必要があろう。
また「方法論の洗練化」を通じて「認識を共有化」することが、不適切であることが明らかな用語を継続して使用する理由になるとの主張も、下記に引用した主張を覆すだけの説得性に欠けるように思われる。適切な用語を用いて「方法論の洗練化」と「認識を共有化」することが、なぜ拒絶されるのだろうか。

「最も問題なのは、あらかじめ“発見”されるべき存在として認知されている「文化層」という予定調和的概念であり、「文化層」という用語に潜む含意は、そのような誤解を招く遠因ともなっている。」(五十嵐2000e:53)

また「石材認識がどのような信頼性を有するかで、文化層の区分は大きく異なるであろう。」(坂下2005:78)としつつ、「母岩の大半が、第1文化層の分布域に帰属するものについては、第1文化層に帰属させている。」(同)としており、「母岩」認識に関する問題意識が希薄である。

非接合資料である「母岩」認識については、以下の2つの前提をクリアすることが、条件となることを述べてきた(五十嵐2000c「接合」『用語解説 現代考古学の方法と理論2』:168、あるいは【2005-10-7】参照)。
前提1同一母岩内均質性
    
ある母岩は分割されても、相互に同一識別が可能なほど均質である。
前提2異母岩間多様性
    全ての母岩は分割されても、相互に非同一識別が可能なほど多様である。

こうした前提条件を、いかにクリアし、あるいは本来クリアできないことなのか、そのことをどのように明示的に示していくことができるのか、これは私にとっても、未だに積み残された課題である。
そして、その立証責任は、こうした手法を全面的に採用し立論の根拠にしている人々により強く存在する、と考えるのだが・・・


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