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#2:20061018 [セミナー]

今回も、本論である「考古時間論」に入る前の自己紹介から、議論が沸騰し、およそ1時間が経過してしまった。
それぞれに抱える問題意識、疑問点などは、それぞれながら、現在流通している在り方、通用しているフォーマット、共有されている感覚などに対して、一様に違和感、「なんかおかしいんじゃないの?」という思いがあることが伺われた。

 「地質学的堆積論に対する考古学的構造論は、単なる層位論を超えて、遺跡の本質的理解を深めるために必要である。そこにこそ層位論研究を通じての遺跡構造論があり、初めて層位論がその遺跡での基礎的研究の重要な責務を全うしたことになる。ここに層位論が編年論の根幹をなすのみならず、遺跡構造論に関連した重大な使命を見出すのである。」(麻生 優1985「層位論」『岩波講座 日本考古学1 研究の方法』p.82)

「地質学的堆積論に対する考古学的構造論」とは、どのような内実を有しているのか?
どのようにして「単なる層位論を超えて、遺跡の本質的理解を深める」ことができるのか?
「越える」べき「単なる層位論」と「通じる」とされる「層位論研究」は、どのように違うのか?
「重要な責務」「編年論の根幹」「重大な使命」・・・
言葉は重々しいが、何度読んでも、その意味内容がさっぱり理解できない。
そうした文章を読んで、20年以上が経過した。
依然として答えが示されない以上、自分で答えを見出していくほかない。

累重法則と同定法則しか出てこない考古学における「地質学的堆積論」。
「切り合い関係」に一切言及されない「層位論研究」の概説、事典項目。
層中の遺物と層下にある面、層上にある面との相互関係、時間的意味合いの違いに意を払わない日本の「考古学的構造論」。

考古学は、とても科学としての要件を満たしていない。
そうした曖昧さをできるだけ、認識しつつ、少しでも「科学的」であるべきだ。
そもそも、その「科学」とやらが、確固としたものなのか。

何のために、発掘をしているのか。
何を目指して、こんな議論をしているのか。

投げかけられた問いを、異見を、
凝り固まった常識や、肩書きや、経歴などに左右されずに、
柔らかい心で、しっかりと受け止めて、
それを、さらに前に向かって、差し出していこう。
未だに、かたちをなさない、
誰も予想もできない、
何かのために。

そのことは、半世紀も以前に
しっかりと記されていたのだった。

「野分のあとを繕うように
 果樹のまわりをまわるように
 畑を深く掘りおこすように
 わたしたちは準備する
 遠い道草 永い停滞に耐え
 忘れられたひと
 忘れられた書物
 忘れられたくるしみたちをも招き
 たくさんのことを黙々と

 わたしたちのみんなが去ってしまった後に
 醒めて美しい人間と人間との共感が
 匂いたかく花ひらいたとしても
 わたしたちの皮膚はもうそれを
 感じることはできないのだとしても

 あるいはついにそんなものは
 誕生することがないのだとしても

 わたしたちは準備することを
 やめないだろう
 ほんとうの 死と
         生と
         共感のために」

 (茨木のり子1955「準備する」『対話』不知火社、一部抜粋)


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ホイサッサ

中学生くらいから、なんとかの法則などというものが教科書に登場します。それらの中には経験的にあたりまえ!と思えるものも多く、わざわざ法則などと表現することになんの意味があるものか?と思っていました。しかし今回のセミナーで示された(経験的にあたりまえな)法則の説明を聞き、また、それについての意見を聞いているうちに「なるほど。」という気になってきました。

経験的に知っていることのほとんどには、はっきりとした裏づけがありませんから、どこかあいまいです。あいまいですが、日ごろはそれでも十分役に立っていますから困りません。ついでに、大体誰でも知っていることなので、説明もなく「それは明らか。」と言ってみたりもします。しかし法則化すると、それらはしっかりとした形を現し、あいまいでなくなります。つまり「明らか。」と思われていた中に、実は明らかでないものがあり、意外と明らかなものがあることが説明されるのです。

また、ひとつの法則が、別の法則の基礎になり、より多くの事柄がそれらによって確からしさを与えられます。あいまいであったものの輪郭が、次第にはっきりとしてくるのです。法則化され、それが広く認められるようになってこそ「明らか。」という表現ができます。また、明らかでないものが、よりわかりやすく見えるようになるので、何を明らかにすべきなのか?が示されます。

セミナーで法則の必要性について、ひとり納得することとなるとは思いませんでした。一見、実生活(あるいは現場)で何の役に立つのかわからないこともあるんですね。
by ホイサッサ (2006-10-21 21:37) 

五十嵐彰

今まで深く考えることもなく、なんとなく、漠然と、そんなものだろうと考えていたことが、ある新しい見方をすると、全く異なる相貌を見せて、新たな世界が広がってくる、そうしたことが大好きです。
今朝の新聞で、フィンランドで開催された「エアギター第11回世界選手権」で日本人で初めて優勝した人が紹介されていました。「見えないギターを、投げて、回して、へし折った。審査員全員が5.9点をつけた。その一人は「ギターが折れるのが見えた。」こういう話が大好きです。
by 五十嵐彰 (2006-10-22 08:35) 

青田石

「経験的に当たり前のこと」とは一体何なのか?
ある人にとっては当然のことが、他の人にとっては奇異なことである場合が多々ありえるのではないか。今回のセミナーの提唱が発掘調査従事者にとって「経験的に当たり前」のことだとしたら、解釈の相違で片付けられていることや誤認・捏造がこんなにも多くは無いはずだと思う。
法則はある一定の条件で成立する。例外は必ず存在する。その例外は別の条件下では法則に従うのではないか。
考古学を専門とする人たちは、何をどうしたいのだろう。何を解き明かそうとするのだろう。辞書に載っているような曖昧な答えは聞きたくない。

「これならわかる日本の歴史」(大月書店、1992初、2002改訂)という本に、
捏造された宮城県の遺跡が認知され未だに存在するように書かれている。
以前にも(捏造発覚後)どこかで同じような本を見たが。
反省はないのだろうか?
471bも相変わらず曖昧にしているのは何故だろう?
by 青田石 (2006-10-22 16:03) 

ホイサッサ

「経験的に当たり前」について。第2回セミナーでの会話を元にしたカキコミなので、説明が不十分ですいません。切り合い関係にある2つの遺構と覆土・遺物といった、6つの新旧関係についての話がありました。そして、それぞれの新旧について、「経験的には知られていることですね。」というような会話があったのです。とはいえ、青田石さんが言われるように、新旧関係にだけでなくあらゆることについて、あいまいになっている現実があります。では、ひとつひとつ、まとめていって、共通認識されやすい形にしてみてはどうでしょうか?今回のセミナーでは、なぜ法則があるのか?なんてことを考えることができました。(それはセミナーのテーマではないので、たぶん私だけですけれど!)
by ホイサッサ (2006-10-22 22:14) 

五十嵐彰

「「知的であること」の最低限の定義、私たちの文脈での基本的な理解は、政治的社会的問題についての思考停止をやめること、自分が生きている時代と社会の大勢に無批判に追随することを止め、自分の頭で考え、批判的な検証を怠らないこと、単に知識を持っているというだけでなく、自分自身で諸問題を検証するために知識を求め、つねにより深く適切な判断を形成するよう努力すること、といったことになるでしょう。それは何もいわゆる「知識人」にだけできることであるわけではない。「普通」の市民の誰にでもできることであるはずです。・・・私にとって哲学とは、わかりやすく言ってしまえば、「騙されないために批判的に考えること」ということになります。為政者たちに騙されないこと、さまざまな意匠のイデオロギーやイデオローグたちに騙されないこと、マス・メディアが作り出す時代や社会の「空気」や「雰囲気」に騙されないこと、などなど。こうした意味で騙されないためには、いま言ったような意味で「知的」であることが有効です。そして、そうした意味で徹底的に「知的」であることが哲学だとしたら、哲学は「抵抗」の手段になりうる。哲学は抵抗たりうるか、と問われたら、この意味で私は「哲学は抵抗たりうる」と答えたいと思います。」(高橋哲哉)
前にも引用しましたが、繰り返し確かめなければならない事柄だと思います。単なる自己満足な考古学ではなく、知的な考古学を、すなわち自分の頭で考える考古学を、批判的な検証を怠らない考古学を、騙されない考古学を、そして何よりも、抵抗たりうる考古学を。
by 五十嵐彰 (2006-10-22 22:27) 

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