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土井1985・87・89 [論文時評]

土井 義夫1985・87・89「考古学方法論ノート(1)・(2)・(3)」『貝塚』第35号:13-15、第40号:10-13、第43号:13-15.

5年間にわたり記されてきた習作(ノート)である。私の中で、近現代考古学、そして<遺跡>問題が浮上してくるにあたり、大きな影響をもった文章。そして、その冒頭の一文。

「日本の考古学には、研究方法を体系的に論じた著作が乏しい。63年も前に刊行された浜田耕作の『通論考古学』(1922)が代表的なものとされ、未だにそれを超すものはほとんどないという(田中・佐原1981「訳者まえがき」『考古学研究入門』)。いかに名著とはいえ、驚くべきことといわざるを得ない。特に、ここ20年ほどの間には欧米の研究者の著作が翻訳・紹介されてはいるが、日本の研究者がオリジナルな方法論を全面的に展開することは、ほとんどなかったといってもよいだろう。」(1985:13)

「63年前」という数字に21を足して「84年前」と修正することによって、ほとんど現在も通用してしまうということの意味することは。

「考古学の方法論について考える時に、何よりも基本にすえなければならないことは、考古資料の原則的な性格を明確にふまえた上で検討された資料論ではないだろうか。」(1987:10)

20年も前に第2考古学は、明確に指摘されていたのであった。そして<遺跡>問題についても。

「例えば、考古学の主要な研究資料とされる「遺跡」について、それがいかなる性格を持つもので、どのようにして残され、現在に至って私たちの前にどのような姿で現れることになったのか、といった原則的な問題でさえ、厳密に検討されたことはなかったといえる。そのため、「遺跡」に対する認識は、便宜的ないしは感覚的なものとなってしまった。それは、遺跡の範囲の設定に顕著に認められるように、経験的に成立した、あまりにも常識的な認識に留まらざるをえない状況を生み出しているように思われる。」(同)

20年経っても、未だに「便宜的ないしは感覚的なもの」がまかり通っているようである。

「遺跡には感動がある! シリーズ「遺跡を学ぶ」 ただ今刊行中! 新泉社」

「「遺跡は、確かな過去を一つ一つの事実として内包している。それらの遺跡を理解することによって、人間の歴史を構築し、これによって人間社会のあるべき未来に見とおしを持つことが可能となる。」(「日本遺跡学会」設立趣意書)

 「考古学が研究対象とする「遺跡」とは、単に遺物や遺構が埋没している場所であるというよりも、人類が出現して以来の様々な土地利用の痕跡であると考えた方がよい。つまり、人類がその時々の生産や生活の形態に即して、居住の場として、あるいは墓地や記念物として利用した結果が、一体となって、かつ多くの場合複合して大地に刻み込まれたからこそ現在まで残ったのであり、私たちが遺跡として認識できるのである。また、そこで発見される遺構や遺物は、その土地利用の内容を示す遺存物ということになる。さらに、それらは数万年の間に複雑に累積され、破壊されながらも、今日まで残存してきたものなのである。」(同:12)

「人類が登場して以来の、土地利用痕跡の累積である「遺跡」は、ある地域の中で、ほんらい多様に認識されるはずのものであった。現在、その多様性を改めて検討し、空間的・時間的諸関係を解きほぐすための方法が模索されなければならない時期がきていると思う。」(同:13)

「模索されなければならない時期がきている」とされてから、およそ20年が経過した。その間、はたしてどれほどの事が、模索されただろうか。それにしても、そもそも模索する動きなるものは存在したのだろうか。あったとすれば、そうした動き(例えば土井1995「考古学資料論」『中世資料論の現在と課題』名著出版)に対して、どこから、どの程度、どのような対応がなされたのだろうか。


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