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回想(総括-4) [捏造問題]

世に言う「ブラック・リポート」、またの名を「協会黒書」(日本考古学協会2003『前・中期旧石器問題の検証』)によって、全ての検証が終了したわけではない。

「本書が前・中期旧石器問題の終焉を告げるだけにとどまらず、今後の研究を展望しつつ、新たなる出発点の礎となることを切望するものである。」(小林達雄2003「序」同書)

ここで「終焉を告げ」られたのは、あくまでも真贋の部分に関してのみ、すなわち第1考古学に関してのみであり、その事柄をもとに展開された研究・方法・解釈など、すなわち捏造問題の第2考古学的側面に関してはほとんど手付かずといってよい。ものに止まることなく、ものから組み立てる考え方、それが第2考古学の研究対象であり、それが放置されているのである。

「結果的に互いに無関係であった標本の寄せ集めに接していながらも、何らその不自然さを暴くことなくそれらの研究は淡々と遂行されていた。分析法が石割り体系の再構築には適さないものであった証であろう。筆者は型式分類や属性分析に意味がないと言っているのでは決してない。それらは有効な分析法であるし、大いに発展させるべきものであることは間違いない。しかし「前・中期旧石器」時代の伝統を探し出す作業には本来的に向かない方法ではなかったかと述べているのである。」(西秋良宏2003「前・中期旧石器時代の技術形態学」同書:p.517)

「アジアの原人は二本足で歩いたが、間違いなく種レベルで我々とは異なる生物である。かれらが生きた環境や生態、行動パタンの研究は古人類学、古生物学であり、ひいては自然科学そのものに近い。「考古学と自然科学の提携」などの話で太刀打ちできる相手ではなかろう。いくら化石が見つからないからといっても堆積学の専門家すらフィールドにはりつかず、文化系の石器専門家だけで実施する更新世遺跡調査は無謀である。東北の前期旧石器遺跡研究がそうだったとすれば、そこにはアプローチそのものに致命的な欠陥があったと言わざるをえない。」(西秋良宏2001「西アジア先史学からみた日本の「前期旧石器」問題」『検証 日本の前期旧石器』学生社、p.91)

現在、行われている日本の前期旧石器研究に、こうした提言が生かされているだろうか。あるいは生かされていなければ、何が原因で生かされていないかを検討しているだろうか。検討されていないとしたら、それは・・・

「この自覚をもち、批判的精神を成長させることが何よりも大事であると私は考える。」(春成秀爾2003「前・中期旧石器問題の解析」『前・中期旧石器問題の検証』p.599)
「たとえそうした傾向が若干みられるとしても、すでに今日の学界全体の空気は大幅に開放的であることは確かな事実であり、そうした弊害は急速に解消されてゆくであろうことを確信するものである。」(小林達雄2003「捏造事件と考古学研究者」『前・中期旧石器問題の検証』p.605)

A4版600頁「最終報告書」(例言)の総括として記された2つの文章の最終節である。どちらもそれぞれ異なる違和感が残る。
日本の旧石器研究において、批判的精神は、本当に成長しているのか。
日本の考古学界が大幅に開放的であるのは、本当に「確かな事実」なのか。

こうした違和感は、以下の資料を読んでいると益々強まる。
日本旧石器学会第1回シンポジウム「後期旧石器時代のはじまりを探る」(2003年12月)
日本旧石器学会第2回シンポジウム「石刃技法の展開と石材環境」(2004年12月)
日本旧石器学会第3回シンポジウム「環状集落 -その機能と展開をめぐって」(2005年6月)

 

 

 


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