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回想(総括-3) [捏造問題]

単独犯行説と複数犯行説が両立していた。今も両立しているのかも知れない。しかし私にとっては、実際がどちらであっても余り興味がない。むしろ、そうした議論を通して見える日本考古学の在り様の方がより重要だと思える。

単独犯行説とは、一人で全ての犯行を行った、周りは単純に騙されていた、あるいは薄々気がついていたのかも知れないが、あえて積極的に解明しようとはしなかった、というものである。
複数犯行説とは、一人であれだけのことができるはずはない、裏に指示をした人物、すなわち適切な場所に、適切なブツを仕込むことを示唆した人物(黒幕)がいたに違いない、というものである。

これには、犯人と目される人物の経歴が大きく影響している。すなわち、考古学の専門教育を受けた人物ではないから、あれだけの専門知識を必要とする犯行がなしえたはずがない、という。もし、犯人が専門教育を受けた学位保持者であったとすれば、複数犯行説が成立する余地はずっと低くなるに違いない。

このことは、スケールこそ異なるが使用痕跡研究の場面においても、同質の議論としてなされていた。すなわち、犯人が当時最先端の研究知識である使用痕跡研究をマスターしていたはずがない。だから、単独で異なる使用痕跡が着いた石器を異なる集中部に仕込むことなどはできないはずだ、と。
ところが、懸案の事例(座散乱木8層上面)について、仔細に検討してみたところ、異なる集中部に異なる使用痕跡石器が分布していた、という事象そのものに研究者側のバイアスがかかっていたことが明らかになった(五十嵐2003a「座散乱木8層上面石器群が問いかけるもの」『旧石器文化と石器使用痕研究』石器使用痕研究会、25-31)。

自分の仮説に都合のよいデータを採用しがちであるというのは、あらゆる学問において認められる傾向であり、検証バイアス(confirmation bias)と呼ばれる。
これは未検討であるが、考古資料に残された痕跡を類別して実験試料に残された痕跡と比較同定するという実験使用痕跡研究の中枢過程においても、検証バイアス(我田引水的状況)が発生していた可能性が高いと推測される。

複数犯行説には、私たちが行っている事柄、すなわち考古学研究が確固とした客観的な科学的営みであり、考古学研究者はその高度な研究に従事しているのだ、という自己満足的な信念、思い込みが作用しているように思われる。
そしてその裏には、そのような複雑で精緻な研究を、一介のアマチュアが容易にマスターできるはずがない、という蔑視観と、自らの立場を盲信する特権意識も垣間見えるようだ。

ところが、捏造問題というものが明るみに出したのは、私たちが学問として信じて行ってきた事柄が、あるいは信奉してきた近代合理主義や科学的実証作業が、いかに曖昧な、そしていい加減なものであったかということであり、そのことに自惚れていたあるいは陶酔していた考古学者たちの生態でもあった。
気が付いてみれば、過去に確かな真実があり、それを私たちは地中から掘り出した考古資料から明らかにするのだ、土器の一片から確かな過去の社会を復元するのだ、などと能天気なことをいっているのは考古学それも日本の考古学ぐらいで、周りの社会科学、あるいは世界の考古学は、とっくに言語論的転回を経て、構築主義に移行していたのだった。

私の答は、一つ。
私たちが信じて築き上げてきた世界/過去の社会などというものは、それほど立派でも確かなものでもない、ということ。
このことを肝に銘じなければならない。


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