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回想(2002) [捏造問題]

2002年の2月23日に東京都立大学にて「旧石器時代研究の新しい展開を目指して -旧石器研究と第四紀学-」と題した日本第四紀学会・日本学術会議第四紀研究連絡委員会共催のシンポジウムが開催された。
「遺跡形成論からみた堆積物としての遺物」(御堂島正)、「人骨の形態学的判断の信頼性と限界」(馬場悠男)、「遺物包含層の年代と環境」(町田 洋)というお三方とのセッションであった(五十嵐2002「型式と層位の相克 -石器と土器の場合-」『旧石器時代の新しい展開を目指して』:13-24)。私にとっては、本稿が捏造問題に関して発覚後最初の文章となった。

その頃(2000~2002)は、野川源流域から出土した膨大な旧石器資料群をひたすらトレースするという毎日を送っていた。そしてマスコミでは捏造問題に関連して、「層位は型式に優先する」という考え方そのものが間違っていたのだ、いやそうではない、といった言説が盛んに飛び交っていた。そのような発言を目にしながら、何か違うのではないか、という違和感がずっと消えずに残っていた。

「型式論」と「層位論」は、考古学という学問の基本的な方法論とされ、個別には様々に論じられもしてきたが、両者の相互関係について今までまともに論じられたことはあったのだろうか?
それよりも何よりも、そもそも考古資料の型式、あるいは型式論(タイポロジー)について、本当にあらゆる考古資料を一括して論じることができるのか? 石器型式と土器型式では、考古資料上の位置付けが異なるのではないか? 例えば、何故、加曾利EⅢ式の打製石斧は存在しないのか?
そんな当たり前のことを、一緒に整理作業を手伝ってもらっていた後輩とガンガン議論していた。

そこで気付いたことは、型式論という考古学の基軸となる方法論についても、概論(目立った部分、特徴的な部分に着目して全体を記述すること)は述べられていても、総論(目立つ部分も目立たない部分も、全体を総合的に記述すること)は述べられていない、ということだった。それこそ、モンテリウスの青銅器から土器や鏡の紋様、墓碑、あるいは鉄道汽車、自動車、背広のボタンあるいはディズニーの主人公に至るまで、様々なものの形の時間的変遷が語られてきたが、自動車と青銅器の変遷を本当に同一の視点で対比できるのか、という点については、いずれも詳しい検討がなされていない。この点については、改めて論じたいと思うが、要は対象ごとに様々な型式論があってしかるべきではないか、ということであった。そして、その違い、例えば材質ごとに異なる様相にこそ、考古資料の本性が把握しうる糸口があろうという見通しも得られたのであった。

であるからして、「層位は型式に優先する」などという文言を金科玉条のごとくに繰り返す、あるいは型式・層位・一括性の三位一体を強調するのだってケース・バイ・ケース、Ⅲ層とⅨ層の場合ですら様相は異なってくるのだから、旧石器と近世を一緒くたに議論できるはずもない、というのが結論であった。

付け加えれば、「層位は型式に優先する」という文言のオリジナルを求めて、国会図書館にまで行って「大分合同新聞」(1963年1月4日)ハーバード大学H.L.モービウス教授特別寄稿「「丹生石器」発見の意義」(6面)と題された記事を精査したが、とうとう確認することができなかった。どうやら1963年以降に誰かが考案した文言のようである。


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