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回想(90年代後半・末葉) [捏造問題]

98年6月には、後に高く評価されることになる論文が旧石器の専門誌に掲載された(竹岡俊樹1998「「前期旧石器」とはどのような石器群か」『旧石器考古学』第56号:15-27)。
全13ページの10ページ以上をフランスのテラ・アマタ遺跡の記述に費やしたものである。アシュール文化に属する石器群を記述することによって、上高森資料の異質さを明らかにしようというのが本論の目的とされた。フランスの前期旧石器と日本の前期旧石器との「違和感をより客観的に理解していただくために」(p.15)詳細な記述がなされたわけであるが、詳細な記述がなされたのはテラ・アマタ資料についてのみで、上高森資料については物理的な障害のためか、具体的な記述は一切なされなかった。そして「違和感」の根拠は、「彼らの石器(ヨーロッパ、アフリカの前期旧石器)からは何か暴力的なもの、いわば肉の匂いを感じるのである」というのが結論であった。
そしてこうした結論に至ったきっかけは、山形県「富山遺跡」出土資料にヨーロッパやアフリカなどの前期旧石器時代の文化と類似していることを確認したこと、すなわち富山資料に「肉の匂いを感じ」たことだという。であるとすれば、富山資料の位置付けも、また極めて重要となる。もし富山資料が新石器の所産であるとすれば、「肉の匂い」が感じられてはならない、すなわち「脳や手の違い」が反映してはならないからである。

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回想(90年代後半) [捏造問題]

「このように、座散乱木遺跡の基盤に達した頃に馬場壇A遺跡が発見され、馬場壇A遺跡が基盤に達した頃に高森遺跡が発見されるという、始源研究の歴史的必然性のようなものを感じざるを得ない。これらの成果を支えてきたのは、民間の研究者藤村新一氏であり、石器文化談話会であったことを改めて記しておきたい。その後、馬場壇A遺跡・高森遺跡は、いずれも東北歴史資料館が調査を継続し、民間ではなし得ない巨額の費用をかけた大規模な調査が行われ、各種理化学年代、各種自然科学分析に多くの成果を挙げた。」(鎌田俊昭1995「日本旧石器時代前・中期研究の現状と課題」『展望 考古学』考古学研究会:p.2)

90年代後半には、大勢は「前期旧石器」容認となっていた。それは、懐疑派の代表格であった小田氏を含め(小田静夫1997「高森遺跡」・「馬場壇遺跡」『人類学用語事典』p.172-3、p.218、雄山閣、本件の存在については本人より直接教示いただいた)、キーリ氏も同様であり、言わば「総崩れ」の状況を呈していた。

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回想(1997) [捏造問題]

日頃感じていた不満として、考古学というのは、隣接学問、例えば文化人類学・形質人類学・霊長類学・地質学・地理学などと比較しても明らかに海外の情報について紹介される率が低いということであった。何も単なる「横文字崇拝」ではなく、世界で知られている常識/なされている先端的研究が殆ど知られていない/なされていない、言葉を変えて言えば知らなくても/なされていなくても国内ではやっていけるということだった。文化人類学で言えば、どの入門書を見てもモルガン・タイラー・マリノフスキーから始まって、エヴァンス=プリチャード・レヴィ=ストロースあるいはターナーやギアーツあるいはジェイムズ=クリフォードを知らなければ、それこそ話しが始まらない。ところが考古学と言えば、モンテリウス以来チャイルドやシャックリ-あるいは レンフルー・ラウス・トリッガー・ディーツ・ホダー(最近になってギャンブル)が少し訳されたぐらいで、デビッド=クラークもグリン=ダニエルも、何よりもマイケル=シファーもそしてあのビンフォードすら1冊の訳書もないのだ!

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回想(1995) [捏造問題]

1995年1月(実際の執筆は94年の夏から秋にかけて)には、89年と同じ編者から同じような企画を頂き、題材として示されていた「高森遺跡」に関する記述を行った(五十嵐1995「日本列島に人類が登場したのはいつか? -高森遺跡発見の衝撃-」『別冊歴史読本 最前線シリーズ 日本古代史〔謎〕の最前線 発掘レポート1995』新人物往来社:10-15)。

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回想(90年代前半) [捏造問題]

91年に行政調査を主たる業務とする財団法人に就職したが、やっている事柄は、それまでの校内調査を主たる業務とする大学組織と殆ど変らなかった。
相変わらず、東北では、盛んな調査が行われており、夏になると、カンパ袋が職場を回り、手弁当で学術発掘に参加している我々にご理解を、といった案内文を読み、大変だなと思う程度であった。

当時、行政発掘は毎年何億という税金を使い大規模な調査を経年的に実施しており、それに対して在野の学術発掘は精々数十㎡の小面積を有志の持ち寄りの寄付で賄っている、あるいは学生達の無償の尊いボランティア精神によって賄われている貴重な存在である、そうしたことに対する行政職員の引け目・負い目がなかったかと言えば嘘になろう。

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回想(1989) [捏造問題]

そんな頃、代表的な旧石器の<遺跡>をいくつか取り上げて、概説を書いてくれという話しがあった。まだ卒業したばかりで、何の実績も無かったが、有り難くお受けした。執筆者で、私より若いのはもう一人だけであとは皆10才以上年輩の方々ばかりであった。編集者からは、「馬場壇A」、「富沢」、「西八木」の3つが示されていた。「馬場壇A」については、「前期旧石器」に関する私自身初めての言及となった(五十嵐1989「15万年前の列島最古の遺跡 -馬場壇A遺跡-」『古代史はこう書き換えられる -検証・33の遺跡-』立風書房:6-18)
以下、小見出しごとに概略を述べる。

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回想(80年代後半・後葉) [捏造問題]

1985年の10月には早速というか即座にというか、「中峯遺跡発掘調査報告」(小川1985)に対して、そして特に『科学朝日』の小田発言については「事実誤認・曲解をもとに各方面に流言を飛ばすに至っては、非科学的・考古学以前の姿勢と言わずして何といえようか」と厳しい表現で反論を加えている(鎌田俊昭1985「宮城県における旧石器時代前・中期をめぐる最近の批判について」『旧石器考古学』第31号:77-86)。

1985年3月に兵庫県明石市で行われた国立歴史民俗博物館による発掘調査の影響も大きかった(国立歴史民俗博物館1987『国立歴史民俗博物館研究報告第13集 明石市西八木海岸の発掘調査』)。考古学のみならず人類学・古生物学・各種年代測定など、まさに国立組織による西日本の「馬場壇A遺跡」といった様相を呈していた。そしてその結論が旧石器時代に木器が存在していたこと、そして「西八木層から採集された剥片石器は、先に推定した6~7万年前という古さからも、その形態的な特徴からも、本書での岡村道雄の編年でいうと、「新段階中葉」に位置する可能性がつよいと思われる。すなわち、宮城県馬場壇A遺跡10層上面や群馬県権現山遺跡出土の石器群と並行するものと考えられる」(春成秀爾1987「西八木海岸発掘調査の意義」同書:p.294)というものであれば、なおさらである。そして同書には、本ブログ【2005-10-01】でも指摘した岡村1987「日本前期旧石器研究の到達点」:233-246という当時の研究状況を総括する論考も所収されていた。

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回想(80年代後半・前葉) [捏造問題]

そうした1986年の5月、山形県西川町「お仲間林遺跡」の試掘調査の帰りに、宮城県古川市「馬場壇A遺跡」に立ち寄り、第4次調査の様子を見学した。わずか1時間余りの見学であったが、初めて「前期旧石器遺跡」なるものを目にした。後に、単なる調査見学者ですら「発掘調査参加者」として、自分の名前が「報告書」(東北歴史資料館・石器文化談話会1988『馬場壇A遺跡Ⅱ -前期旧石器時代の研究-』)に掲載されているのを見て、「見学しただけで、発掘調査に参加したことになるのは前代未聞だね」と恩師と苦笑しあった思い出がある。それだけ、多くの人にサポートされている調査であることを示したかったのだろうか?

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回想(80年代前半) [捏造問題]

東北歴史資料館で開催されていた旧石器の特別展「旧石器時代の東北」に合わせたかのように、新聞で「3万年前の石器発掘」の大見出しが報じられたのが、1981年9月2日であった。私は旧石器に興味を抱いて学部の1年に進んだばかりの「右も左も分からぬ」秋であった。ちょうどその頃、東北大関係者が中心となって作成された特別展の解説書『旧石器時代の東北』(東北歴史資料館1981)は、芹沢氏の巻頭言からはじまって、旧石器時代の自然環境、石器の基礎的な解説、東北各県の研究史・現状などがコンパクトにまとめられた、正に入門者にとっては格好の手引書であった。

そして1983年4月の「結着(ママ)宣言」である(岡村道雄1983「『座散乱木遺跡 -考古学と自然科学の提携-』石器文化談話会編)。私の考古学研究は、ある程度の距離を取っていたとはいえ、まさに偽りの「前期旧石器研究」と歩を一にしていた、同時代を生きながら形成されたのである。

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回想 [捏造問題]

いまだに脳裏に強烈に焼き付いているひとつのシーンから始めよう。

それは、今から5年前、2000年5月に東京は世田谷の国士舘大学において、考古学のある学会が開催された時のことである。殆ど同じ発表者4人の名前が順列組み合わせのようにして第1会場の午前中いっぱいの時間枠を占拠して5本もの発表(総進不動坂・ひょうたん穴・上高森・袖原3・中島山)がなされた後、疲れ果てて、向かいの建物にある学食に昼食をとりに入ろうとした時のことである。食堂入口右手のあたりに、異様な雰囲気が立ち込めていた。岡村さんと鎌田さんがいつものプラスチックの箱に入った石器を見ていたのだが、その風景をあるカメラマンが右肩に背負った大きな機材で舐めるように撮影していたのだ(報道機関名未確認)。とうとう考古学の学会もプレスの撮影が来るようになった! それも研究発表ではなく、学食で石器を見ながら歓談している光景を! 遠めでそんな様子を見ながら、ある種の感慨にふけっていた。

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