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「とてつもなくない」という評価について考える [雑]

「…五十嵐が示す根拠である「大形石棒の特殊性」については、長田が当日資料に記したようにあくまでも私達の主観的な考えにすぎず、それを考古学的事象、特に今回の発掘調査によって得られた情報によって証明することは難しい。「廃絶時設置」説の影に、五十嵐が言うとおり「石棒の廃絶時儀礼」という呪縛があるとすれば、五十嵐の側にも「大形石棒を「とてつもない」と感じる」ことが「あたりまえの感覚」(五十嵐2017)という呪縛があるように筆者には感じられた。」(合田 恵美子 2017「公開討論会「緑川東遺跡の大形石棒について考える」」『東京の遺跡』第108号:1.)

言わば「呪縛返し」である。しかしどうも「筋」がずれているようである。
この「呪縛返し」の前提は、以下の文章である。
「あの4本の大形石棒が生み出されるにあたって膨大な時間と労力が費やされた、そこに当時の人びとの壮大な思いが込められていたという想定を否定する人はいないのではないか。」(五十嵐2017a「緑川東・廃棄時設置という隘路」『東京の遺跡』第107号:3.)
「とてつもない代物を「とてつもない」と感じる当たり前の感覚と、それを整合的につなげていく当たり前の論理が求められているのではないか。」(同:4.)

「否定する人はいないのではないか」という反語で表現したかったのは、あの4本の大形石棒が「とてつもない」と感じるのは多くの人が共有する前提であろうということであった。そして実際に3時間に及ぶ公開討論会でも、こうした前提に対する疑義が示されることはなかったのである。

「大形石棒の特殊性」すなわち4本の大形石棒の並置を「とてつもない」と感じることが「主観的な考え」であることなど、それこそ当たり前のことであり、そのようなことを証明しようなどと考える人が存在するとは、この文章を目にするまでは考えもしなかったことである。
ところが、ここにそうした根本的な前提に対して勇気ある異論が提出された。すなわち「あの4本の大形石棒」を「とてつもない」と感じることは「あたりまえ」ではない、「とてつもなくはない」すなわち「壮大な思いなど込められていない」し、「膨大な時間も労力も費やされていない」というものである。

「とてつもない」とは、途方もない、並外れた、普通ではないといった意味である。お役所言葉で言い換えれば「極めて高い価値がある」ということになる。こうした理由でもって「あの4本の大形石棒」は国立市初の重要文化財に指定されたのである。であるから「あの4本の大形石棒」を「とてつもない」と感じるのはおかしいという意見は、4本の大形石棒は別に「極めて高い価値などない」と重要文化財の指定基準についても異議を申し立てていることになる。なぜ「とてつもない」と感じることが「あたり前」ではないのか、「極めて高い価値」がないと感じた根拠をより詳しく説明する必要があろう。

「あの4本の大形石棒」が「とてつもなくはない」すなわち普通の縄文石器と余り変わらないということを証明するには、「今回の発掘調査によって得られた情報によって証明する」(合田2017:1.)のではなく(そんなことは出来るはずもない!)、「あの4本の大形石棒」を復元製作して「たやすく作ることができる」、「膨大な時間も労力も費やされ」ないことを実際に示すことである。4本の大形石棒について「とてつもない」と感じるのは呪縛であると主張する者は、「4本再現プロジェクト」を実践して実は思ったほど「とてつもなくなかった」ことを証明する責務があろう。そうでなければ、単なる「言いがかり」と言われても仕方がないのではないか。

4本の大形石棒を「膨大な時間も労力も費やすことなく」製作できたなら、例えば打製石斧や磨製石斧を製作するのと余り変わらない「時間と労力」で製作することが実証されたのなら、私の「とてつもない」という評価も撤回せざるを得ないだろう。そして同時に「極めて高い価値がある」として重要文化財に指定されたこと自体も再考しなければならなくなるだろう。

「緑川東遺跡は多摩川中流域の左岸、青柳段丘面に営まれた縄文時代中期末から後期の集落跡である。石棒は、この集落内に所在した敷石遺構の床面に、四本が並列して横たえられた状態で出土した。
いずれも長さが1メートルを超える大形品で、安山岩系の石材を素材とし、敲打成形で棒状に整えて、うち3点にはその一端に二段の円頭形の頭部をつくっている。典型的な縄文時代中期の大形石棒だが、周辺からは後期初頭の土器も出土していて、この石棒がある程度伝世していたことを窺わせる。
縄文時代の精神生活や、その埋納の具体的な状況を示した極めて学術的価値の高い資料である。」(文化庁:2017年3月10日、文化審議会答申 -国宝・重要文化財(美術工芸品)の指定について- Ⅱ.解説⑤石棒 四本)

実際はこんな大袈裟な話しではなく、ある表現に対する感性の違いぐらいなのではないかと思うのだが、それをあえて文字にして公開しなければならない理由が分からない。
「返し」という議論における作法(禁じ手)が招く危うさを目の当たりにする思いである。


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伊皿木蟻化(五十嵐彰)


「石棒はその形態的特徴から、土偶と共に縄文時代を代表する儀器として位置づけられてきた。特に1mを越えるような大型品は、縄文時代人が作り得た造形物の中でも最大の部類に属し、その製作には素材選択から細部の加工まで膨大な時間と労力を要したものと考えられる。したがって、石棒には縄文時代人の並々ならぬ精神性が込められており、縄文時代の精神文化を考える上で重要な儀器であるといえよう。」(長田 友也2014「国立市緑川東遺跡を石棒から読む」『緑川東遺跡-第27地点-』157.)
合田さんの論に従えば、引用文の筆者も「呪縛」にとらわれていることになりそうです。そういう意味で、私が目にした緑川東の大形石棒に関する文章でそうした「呪縛」にとらわれていないものは見当たらず、とらわれていないのは合田さんだけのようです。
多くの人が考える常識に一人で異を唱えるのは勇気がいることです。ただ緑川東の大形石棒が「とてつもなくない」という考えは、限りなく「トンデモ仮説」に近づいているように思われます。

by 伊皿木蟻化(五十嵐彰) (2017-08-16 07:56) 

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