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宮田2015「朝鮮植民地支配を再び問う」 [論文時評]

宮田 節子 2015 「朝鮮植民地支配を再び問う」『世界』第871号:124-131.

「では、朝鮮人に皇民化を強要した日本人の側はどうだったのかといえば、直接に朝鮮を支配した朝鮮総督ですら、日本の支配を侵略や強制とは認めていない。それどころか、植民地支配に対して、何らの痛痒を感じていなかった。たとえば、第四、六代朝鮮総督を務めた宇垣一成は、日本の敗戦と朝鮮の解放の後にも、自身の日記で次のように述べている。
「満州や朝鮮の暗黒荒蕪の此未開の荒野原に新文明の恵沢を輸入し土着民と日本移民とが共存共栄の恵沢に浴する様に施設したる日本の行為を一概に侵略行為と見做す如きは、正義の鏡に照して到底哀心より承服する訳には行かぬ」(『宇垣日記』三、1717頁、昭和22年10月9日、みすず書房版、以下同)
また宇垣は、朝鮮総督時代の自分を「平和的民主的な牧民官」であったと回想し(宇垣一成述、鎌田沢一郎著『松籟清談』、文藝春秋社、1951年、112頁)、総督としての自分に高い評価を与えている。宇垣をはじめ、日本の支配者・指導者は、徹頭徹尾、日本帝国の立場に立って朝鮮を支配したということを繰り返し明言しており、これを否定することはできないと思う。
問題は、日本の支配者たちが、日本帝国の立場と朝鮮の民衆の立場とは、完全に一致していたと考えていたことである。支配者たちは、日本のために尽くせば尽くすほど、それは同時に朝鮮の民衆のために尽くすことだと考えていたのである。自己欺瞞ではなく本気でこのように思っていたところに、朝鮮植民地支配の根の深さがあるように思えてならない。
宇垣はまた、なぜ朝鮮人は独立運動などするのか、なぜ、日本人にしてもらったことを「光栄名誉」と思わないのか、「不可解の極」みであると述べている(『宇垣日記』一、596頁、昭和2年8月20日)。恐るべき独善というほかないが、こうした思考回路からは、朝鮮植民地支配に対する反省など、生まれてくるはずもなかったのである。」(130-131.)

なるほど、これでは東亜考古学者たちが戦後になっても、敗戦を惜しんだり(駒井1972)、現地での交流を懐かしんだり(斉藤2002)、自分たちの業績を「輝かしい記念碑」と自賛する(藤田1951)のも納得がいく。

「私たちが話しを聞いた総督府の元官僚の多くは、自らが悪いことをしたとは考えておらず、むしろ朝鮮のためを思って一生懸命に尽くしたと考えていた。衝撃的だったのは、私たちが朝鮮を「植民地」というと、必ずといってよいほど叱正されたことである。日本の統治のどこが植民地支配だったのか、植民地支配とはイギリスのインド支配のようなものを指すのであって、日本は朝鮮を日本の一部にし、朝鮮人を日本人にしたのだ、日本の支配は西洋帝国主義的な植民地支配ではない、と力説される方が多かった。これが朝鮮支配に当たった日本人の一般的な認識だったのであろう。」(126.)

自分にとって都合のいいことしか記憶に残らない(「恐るべき独善」!)典型的な植民者意識である。

「植民地主義がもたらしたのは、人間同士の出会いなどではない。支配と従属という関係だ。」(エメ・セゼール)

「では、植民地朝鮮とはどのような社会であったのか。
朝鮮憲兵隊司令部が作成した資料で、日本人が朝鮮人に対してどのような仕打ちを日常的に行なっていたかを示す「朝鮮同胞に対する内地人反省資録」(1933年)を見てみよう。
「内地人と思つて叮嚀に散髪し後で朝鮮の人だと知つて侮辱す」
「火事と聞いて駆け付けたが朝鮮の人の家と判つて皆引返す」
「軍人志望の朝鮮の人に『国を無くする鮮人に戦争が出来るか』と侮辱す」
「朝鮮の人と聞いて診断もせず、看護婦に注射させた医師」……。
その目次を一瞥しただけで、植民地というところがいかに矛盾に満ちたものかがわかる。植民地朝鮮に渡った日本人の多くは、日本で食い詰めた人々、いわば「一旗組」であった。貧しい日本人や社会的地位の低い日本人ほど朝鮮人を差別し、威張り散らしていた。つまり、日本で虐げられていた人ほど、朝鮮ではいっそう差別的になるという「抑圧の移譲」ともいうべき状況が見られたのである。こうした構造と日常を生み出すものこそ植民地支配なのであり、先の資料は、植民地支配がいかに人間の心をゆがめるかを端的に示している。人の心を傷つけても痛痒を感じないほどに人間性を破壊する、そこに植民地支配の本質があるのではないだろうか。」(126-127.)

少し前(7/20)の新聞報道で、奴隷制度存続を求めたアメリカ南部諸州の南軍旗を公的施設から撤去したことに抗議して、白人至上主義団体が州庁舎前で南軍旗を振り回す写真が掲載されていた。
共通する何かがある。

本論と同じような内容のインタビュー記事がある(本来文頭にくる小見出しが文末にあり少し読みにくい)。
筆者が学生時代に元総督府殖産局長であった穂積真六郎氏らと朝鮮近代史料研究会でセミナーを開催していた時、「朝鮮問題の実状を知らせることならば、左右どこでも関係ないと考え」て赤旗に寄稿したことが問題となり、ある人は「アカのような大学生らになぜ敏感な資料をすべて見せるのか」、「穂積に可愛がられていながら、背後から泥水を浴びせた」と言って非難したという。
それに対して当の穂積氏は「あんなに大きな戦争をして負けておいて何の反省もしていない。気を遣うな。」と述べたという。

かつての所属がどうこうではなく、その後の生き方(責任の取り方)について考えさせる逸話(エピソード)である。


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