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蓮實2004『スポーツ批評宣言 あるいは運動の擁護』 [全方位書評]

蓮實 重彦 2004 『スポーツ批評宣言 あるいは運動の擁護』青土社

「今回、つくづくイタリアがダメだという思いを強くしました。カテナチオはいいですよ、鍵をかけるならば。しかし、鍵をかけるならば、カウンター攻撃の先頭部分が華麗でなければならない。華麗に攻撃して鍵もかけるのは意味があるけれど、力づくのヴィエリのヘッドとか、まったく美しさを欠いている。かろうじてデル・ピエーロが一点いれましたが、アズーリに対する個人的な執着を完全に捨てきることができたことが、今回のワールドカップの収穫と言えるかもしれない。」(「「たかがサッカーごとき」にこれほどの熱量を給備させるものは何か -渡部直己との対話2-」85.)

2002年日韓大会後の感想なのでイタリアが俎上に上がっているが、私にとって今回は言うまでもなく「セレソンに対する個人的な執着を完全に捨てきることができたことが、今回のワールドカップの収穫と言える」ということになる。
筆者としては、ブラジル大会について以下のような感想が述べられる。

「あれはもうサッカーではない。ドイツが7点も取ってしまったことは、果たして成功なのか。もちろん、勝利したという点では成功なのですが、『サッカーをサッカーではないものにしてしまった』という点においては、醜い失敗だったとしか思えません。誰かがドイツ代表の精神分析をやらなくてはいけない。どこまで点が取れるのか、面白いからやってみよう、というぐらいの気持ちになっていたと思うのですが、どう見ても7点も取ってはいけない。何かが壊れるし、人の道から外れているとしか思えない。」(2014年7月19日『朝日新聞』13面オピニオン・インタビュー「W杯の限界」)

で、蓮實2004なのだが。
「草野球は醜い。その醜悪さへの調和ある従属を戦力の安定だと勘違いしている連中の凡庸さは、ほとんど井之頭線の域に達している。」(「ベースボールの考古学的な恍惚」146.)
「井之頭線の域」とは何か。それは「井之頭線的軽薄な凡庸さ」だそうだ。
当該沿線で生まれ育った身としては、複雑な心境である。

そして問題の対談。
「草野 わたくしは是非とも巨人に優勝してもらわなくたってかまわない人間ですから、関根さんに王の後継者になってくれとは申しません。でも、関根監督ぐらいしかいないでしょうね。江川と周波数の合いそうな人は。
蓮實 そういわれると、そんな気もしてきましたけれど、どうも根拠がいま一つ明確にわかりませんね。
草野 『表層批評宣言』の著者ともあろう蓮實さんが根拠なんていう言葉を持ちだされるんですか? スポーツの魅力は、まさに無根拠なところにあるのではございません?
蓮實 それはおっしゃる通りなんですが……。」(「どうしたって、プロ野球は面白い 草野進との対話」154-155.)

ある看板を背負った筆者に対して、一喝を食らわせて「シドロモドロ」させることができる人物が現れた!
「食らったこと」を恥じることなく、そのまま活字にし自らの著書に掲載するとは、何と度量の大きいことだろう。
しかし、こうした感想も、対談者が筆者の創り出した架空の人物であることを知るに及んで一転することになる。
なぜこのような手の込んだカラクリを演じる必要があるのだろうか?
こうした作り事によって、自らになんらかの利得が生じるとでも考えたのだろうか?
コトが露見した後のことをも考慮して?
理解しがたいことばかりである。

「知性を欠いた人間は、というより知性に嫉妬を覚えることのない人間は、いかなるジャンルにおいても批評家たりえません。その最低限の「つつしみ」を、いまの日本のサッカー批評は欠落させている。」(「あえていまこそ正論を」187.)

言い知れぬ空しさを覚える。


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