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第9回 宣言記念日 [雑]

「題して「遺物 -その基礎的構造-」といふ。又「遺物とは何ぞや」といふもよろしからう。いふ處は何等新なる知識の展開ではない。従つて、それはよく「判りきつた」と思はれるものであつて、まことに考古學なる學に従ふものは既に「知られたるもの」としてこの問題を通過させてゐるといふのが事実であらう。私がただこの「既に判りきつたもの」の判りきつた姿を描出したいと思ふにすぎない。それは又「判りきらないもの」をかへつて示すものともなるのであるから。且つ、私のとつては、考古學の學的存在の問題にも触れるものとしてこれへの関心の緒としたいからである。」
(中村 清兄1938「遺物 -その基礎的構造-」『史林』第23巻 第3号:147.)

「当たり前のことだが、誰も言わないことを言う」
まことに「第2的」な意見表明である。
筆者は京都帝国大学文学部卒、その後農学部に転じ、さらに家業の扇研究を深めたという異色の研究者である(「水野講師・考古学専攻二回生歓迎会」1937という写真(『考古学京都学派』口絵1)では、濱田耕作・水野清一両氏のすぐ後ろ、小林行雄氏の隣に写っている。)

異なる意味での「第2的」なエピソードを。
「1923年、15歳のとき関東大震災があり被災。下宿を焼け出され、半年ほど大阪にいたときのことです。ある朝、阿倍野に向かう市電に乗りました。混んでいたそうです。祖父は朝鮮の民族服を着ていました。それは、あえて選んだ服装。震災のあと、「朝鮮人が井戸に毒を入れた」などとデマが流れ、たくさんの朝鮮人が殺されたり、いじめられたりしたことに対する、祖父なりの抵抗でした。
車掌は、近くに立っていた祖父のそでを2本の指でつまむようにして、もっと中に入るようにと引っぱりました。祖父はカッとなって、「なんだ、その手つきは。口では言えんのか!」とにらみ返しました。激しい言い合いをつづけて終点に着き、祖父は電車から降ろされて詰所に連れて行かれ、20~30人の運転手や車掌に取り囲まれました。
朝鮮人なら何をしてもいい。そんな空気の中、「やっちまえ、やっちまえ、生意気な野郎だ!」と殴りかかられそうになった瞬間、うしろから雷のような声がしました。
「この恥知らずども! その人をどうしようというのだ。指一本触ってみろ、このわしが相手になってやる!」
40代とおぼしきひとりの日本人が、涙をひと粒こぼして叫びました。殴りかかろうとしていた人たちは、棒立ちになりました。
「ゴミや虫けらじゃあるまいし、金を払って乗ってる客を二本の指でつまんだら、誰だって腹を立てるのはあたり前じゃないか。悪かったら悪かったと、なぜ素直に謝れんのだ。きみたちは一体、どれほど立派な人間のつもりだ。海山越えて遠い他国へ来た人たちを、いたわり助けはできないまでも、多勢をたのんで力づくで片をつけようという、それじゃまるで追いはぎか山賊じゃないか。そんな了見で、そんな根性で、きみたちは日本人でございといばっているのか。」
その人は、大通りの電車道まで祖父を連れて出ると、手をとりながら言いました。
「どうか許してやってくれたまえ、今日のことは私が代っておわびをする。これから先、またどんないやな思いをするかも知れないが、それが日本人の全部じゃないんだ。腹の立つときはこの私を想い出してくれたまえ。」
渡された名刺には、「日曜世界社長 西阪保治」とありました。のちに大阪女学院の理事長、そして新教出版社の取締役をつとめた牧師で聖書学者です。」
(沢 知恵2014「朝鮮人の祖父の隣人になった日本人」『信徒の友』8月号:20-21.一部改変) 

【9年目のデータ: 2014年8月24日】
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