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加藤2014『九月、東京の路上で』 [全方位書評]

加藤 直樹 2014 『九月、東京の路上で -1923年関東大震災ジェノサイドの残響-』 ころから

「染川藍泉は十五銀行本店の庶務課長で、震災当時43歳。典型的なエリートサラリーマンである。藍泉は俳号で、本名は春彦。震災では日暮里の自宅にも家族にも被害はなく、9月中は銀行業務の復旧のために一日も休まず精勤していた。
染川は「朝鮮人が爆弾を投げている」といった流言を最初から信じていたわけではない。むしろ、前日(2日)の昼間までは、そうした噂に振り回される「愚かな人」を軽蔑していた。
「この不意に起こった災害を、鮮人が予知することが何でできるものか」
「現に火事場の爆音を聞いた私は、それが包装した樽や缶の破裂する音であるという確信を得ていた」
「何も知らぬ鮮人こそよい面の皮であった」
ところがその夜、避難先の線路脇で「井戸の中に劇薬が入れてあるというから、諸君気をつけるよう」という青年団の声が闇の中に響くのを聞くうちに、不安が膨らんでくる。
「私は弾かれたように眠りから醒めた。そして考えた。これは路傍の無智な人たちのうわさではない」
「青年団が広めるからには何か証拠があってのことに違いない」
「さすれば私の宅の井戸も実に危険千万である」」(56-57.)

こうして俳句をたしなむ「典型的なエリートサラリーマン」は、上野公園での虐殺に参加することになる。

「私がちょうど公園の出口の広場に出た時であった。群集は棒切などを振りかざして、ケンカでもあるかのような塩梅である。得物を持たぬ人は道端の棒切を拾ってきて振り回している。近づいて見ると、ひとりの肥えた浴衣を着た男を大勢の人達が殺せ、と言ってなぐっているのであった。
群集の口から朝鮮人だと云う声が聞えた。巡査に渡さずになぐり殺してしまえ、という激昂した声も聞こえた。肥えた男は泣きながら何か言ってる。棒は彼の頭といわず顔といわず当るのであった。
こやつが爆弾を投げたり、劇薬を井戸に投じたりするのだなと思うと、私もつい怒気があふれて来た。吾々は常に朝鮮人だと思って、憫みの心で迎えているのに、この変災を機会に不逞のたくらみをするというのは、いわゆる人間の道をわきまえないものである。この如きはよろしくこの場合血祭りにすべきものである。巡査に引き渡さずになぐり殺せという声はこの際痛快な響きを与えた。私も握り太のステッキで一ッ喰はしてやろうと思って駆け寄っていった。」(染川藍泉『震災日誌』:55-56.)

「染川は、上野公園の事件の後しばらくすると冷静さを取り戻し、「朝鮮人暴動」を再び否定してみせている。
「あまりにも話がうがちすぎている。…うらたえるにも事を欠いて、憫れんで善導せねばならぬ鮮人を、理非も言わせず叩き殺すということは、日本人もあまりに狭量すぎる。今少し落ち着いて考えて見て欲しいと私は思った。」(57.)

流言飛語によって通常の理性をいとも簡単に失い、暴行に加担し、またすぐさまそれを取り戻す。驚くほどの振幅の激しさ。それは、「憫みの心で迎えているのに」とか「憫んで善導せねばならぬ」といった相手を見下したパターナリズムにその原因があるようだ。

「一緒にいた私達20人位のうち自警団の来る方向に一番近かったのが林善一という荒川の堤防工事で働いていた人でした。日本語は殆ど聞き取ることができません。自警団が彼の側まで来て何か云うと、彼は私の名を大声で呼び「何か言っているが、さっぱり分からんから通訳してくれ」と、声を張りあげました。その言葉が終わるやいなや自警団の手から、日本刀が振り降ろされ彼は虐殺されました。次に坐っていた男も殺されました。この儘座っていれば、私も殺されることは間違いありません。私は横にいる弟と義兄に合図し、鉄橋から無我夢中の思いでとびおりました。(慎 昌範)」(69.)

「だが彼は、小船で追ってきた自警団にすぐつかまってしまう。岸に引き上げられた彼はすぐに日本刀で切りつけられ、よけようとして小指を切断される。慎は飛びかかって抵抗するが、次の瞬間に、周りの日本人たちに襲いかかられて失神した。慎にその後の記憶はない。気がつくと、全身に傷を負って寺島警察署の死体置き場に転がされていた。同じく寺島署に収容されていた弟が、死体の中に埋もれている彼を見つけて介抱してくれたことで、奇跡的に一命を取りとめたのだ。
…慎の体には、終生、無数の傷跡が残った。小指に加えて、頭に4ヵ所、右ほほ、左肩、右脇。両足首の内側にある傷は、死んだと思われた慎を運ぶ際、鳶口をそこに刺して引きずったためだと彼は考えている。ちょうど魚河岸で大きな魚を引っかけて引きずるのと同じだと。」(71.)

鏡に映る自らの姿を見て怯えている人びと【2013-03-13】。
虐殺を殺害と言い換える人びと【2013-09-04】。
日本人というより人間の残酷さにウンザリする自虐、そしてそうした事実を隠蔽しようとする日本人というより人間の品性にウンザリする自虐の二乗【2011-09-22】。

「私がこの本でもっとも大事にしたいと考えたのは、関東大震災時の朝鮮人・中国人虐殺について、事実を「知る」こと以上に、「感じる」ことだった。
関東大震災時に、朝鮮人たちは「不逞鮮人」と呼ばれて殺されたが、「不逞鮮人」とはそもそも、日本の植民地支配に抵抗する人々を指す言葉として当時のマスコミで多用されていた。震災の4年前に起こった朝鮮独立のための三一独立運動も、「不逞鮮人の暴動」とされていたのだ。
外国の強権支配に怒るのは、人間として当然の感情だ。それを否定するには、相手を、その訴えに耳を傾ける必要がない「非人間」として描く必要がある。朝鮮人が、向き合って対話をする必要がない、その能力がない相手であるかのように描くため、「嘘つき」「犯罪者」「外国の手先」等々といったあらゆる否定的なレッテルを貼り付けるキャンペーンが行われたのである。
関東大震災はそんななかで起こった。朝鮮人を「非人間」化する「不逞鮮人」というイメージが増殖し、存在そのものの否定である虐殺に帰結したのは、論理としては当然だった。
いま、その歴史をなぞるかのように、週刊誌やネットでは「韓国」「朝鮮」と名がつく人や要素の「非人間」化の嵐が吹き荒れている。そこでは、植民地支配に由来する差別感情にせっせと薪がくべられている。「中国」についても似たようなものだろう。
それは90年代の歴史認識問題から始まったのだと思う。南京大虐殺や日本軍「慰安婦」など、日本の「負の歴史」とされる史実-私は歴史に正負があるとは思わないが-打ち消すために、その被害者、被害国の「非人間」化が必要だったのだ。
21世紀に入ると、「非人間」化の営みは、歴史の打ち消しから、「良い韓国人も悪い韓国人も殺せ」という、存在の否定にまで行き着いた。
しかし、元日本軍「慰安婦」を指して「あのお婆さんたちは泣きながら訴えているが、実際には売春を強制させられたわけではない」という語りが、「くたばれ売春ババア」に行き着くのは、もともとそこに「非人間」化の論理があったからで、不思議でもなんでもない。そして、たまには「ヘイトスピーチ」に眉をしかめてみせるメディアは、今や毎日、「嫌韓」「嫌中」と称する「非人間」化キャンペーンを続けて、レイシズムに栄養を与えている。
「非人間」化をすすめる者たちが恐れているのは、人々が相手を普通の人間と認めて、その声に耳を傾けることだ。そのとき、相手の「非人間」化によらなければ通用しない歴史観やイデオロギーや妄執やナルシシズムは崩壊してしまう。だからこそ彼らは、「共感」というパイプを必死にふさごうとする。人間として受けとめ、考えるべき史実を、何人死んだかといった類の無感情な数字論争に変えてしまうのも、耳をふさぎ、共感を防ぐための手段にすぎない。
私は、90年前の東京の路上に確かに存在したことを少しでも近くに感じる作業を、読者と共有したかったからこそ、この本を書いた。記号としての朝鮮人や日本人ではなく、名前をもつ誰かとしての朝鮮人や中国人や日本人がそこにいたことを伝えたかったのだ。「共感」こそ、やつらが恐れるものだから。」(202-4.)

大変よい本である。この場合の「よい」というのは、著者の思いがまっすぐに読者に届いているという意味である。
こうした「共感」が、「日本考古学」にも欠かせないだろう。世界で広まる考古倫理を共有するためにも。
何よりも考古学者として、そして一人の人間として。

「小学校3年のときだ。私の友人たちがある女の子を「やーい朝鮮人!」とはやし立てていじめたことがあった。加わらなかった私も、仲間と見なされて担任の先生に呼び出された。図書室に行ってみると、いつも笑顔の優しい福島先生は、本当に発火するのではないかと思うほどの怒りを漂わせて窓の外を眺めていた。私は震え上がった。先生はしかし静かに、絞り出すような声で、彼が戦時中に見た、炭鉱で悲惨な労働を強いられる朝鮮人の姿を語った。当時の私はその内容を十分には理解できなかったが、怒りと悲しみはひしひしと伝わってきた。子どもながらに、民族差別は人として許されないことなのだと知った。今では顔も思い出せないが、あのときの福島先生の燃えるような背中を、私は一生忘れないだろう。」(214-5.)

教育ということの重さと素晴らしさを教えられる。
 


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