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山2013「「遺跡社会学」の可能性」 [論文時評]

山 泰幸 2013 「「遺跡社会学」の可能性」『遺跡学研究』第10号、日本遺跡学会:126-133.

日本遺跡学会設立10周年を記念する第2特集「「遺跡学」とは何か」に収録されている論考である。
第2考古学の主要な研究領域である<遺跡>問題の初発も、2004年の「近現代考古学認識論」であるから、ほぼ10年余りを閲しており、「遺跡」を研究主題とする日本遺跡学会と「併走してきた」という印象である。
そして10年を経過して、ようやく接点が見出せた思いである。

本論に関して言えば、4年ほど前に採り上げた記事(山2009「遺跡化の論理」【2010-01-07】)と重なる点が多いのだが。

「遺跡はモノ性と場所性から構成される概念ということができる。」(127.)

「・・・<遺跡>と呼ばれてきた対象を「もの」で構成される「場」として認識することで、考古資料が空間化される「場」という概念について改めて論じなければならない。どのような「もの」が、どのような「場」に、どのように存在しているか、それをわたしたちがどのように認識し、誰に対して、何のために、どのように表現していくのか。」(五十嵐2005「遺跡地図論」『史紋』第3号、史紋刊行会:104.)

「遺跡は、まず言説上に構成され、遺跡を構成する言説が、特定のモノや場所といった物質的基盤に結びつけて語られているのだと。遺跡がどこにあるのかといえば、特定のモノや場所ではなく、まずは言説上にあるというわけである。」(128.)

「<遺跡>とは、現代社会における様々な葛藤の中から必要に応じて生産され用いられている「記号」である、という認識が必要である。<遺跡>という名の記号が果たしている役割、考古学的言説の中心的対象としての<遺跡>がいかに編成されているかを明らかにすること、このことが考古学の社会的な機能、例えば都市空間の再開発事業において<遺跡>認識が果たす意味を再確認する契機ともなる。」(五十嵐2005:104.)

「一般に、「遺跡を発掘する」とか、「遺跡が発見される」とかいった表現がある。こうした表現が前提としているのは、発見される以前から、あるいは発掘される以前から、そこに遺跡はあったとする考え方である。「眠っていた遺跡を発見する」というような表現が可能なのも、それゆえである。しかし、ほんとうに、以前からそこに遺跡はあったのだろうか。むしろ、実際は、見出された何らかの過去の出来事の痕跡が、遺跡と見なされるようになったのではないだろうか。「遺跡があった」のではなく、「遺跡になった」のではないだろうか。」(129-30.)

「<遺跡>は、単に「そこにある」といった存在ではない。複雑な利害を調整した上で「そこを<遺跡>とする」として設定される社会的なプロセスを経た構築物である。<遺跡>化とは、濃淡様々な価値を含んだ土地を分節し、<遺跡>なるものがあたかも実体として存在するものの如く産出される過程、<遺跡>が物象化されるメカニズムをいう。」(五十嵐2007「<遺跡>問題」『近世・近現代考古学入門』:251.)

こうした事象は、何も<遺跡>に限定されない。最初に気付いたのは、「文化層」についてであった。
「関東地方のわずかな数の考古誌(発掘調査報告書)を検討したにすぎないが、「文化層」について記述する際に「本来隠れていた何かが姿を現したときに用いる動詞」が多用されている。例えば「確認された」(麻生1987:8.)、「発見され」(同:10.)、あるいは「検出された」(小池1991:14.)という用語例が圧倒的である。多くの報告者がおそらく無意識に用いているこうした言葉に表出しているように、個々の「文化層」の存在が確証的な文脈において、「文化層」の区分過程が明示される事例はほとんど存在しない。研究者の主体性によって分析単位を操作するという意識を伺わせる「区分した」(阿部1983a:145.)という動詞を用いている例は、きわめてわずかである。」(五十嵐2000「「文化層」概念の検討」『旧石器考古学』第60号:52.)

「…従来は何となく遺構が集まっている場所ないしは遺物が集中して存在する場所が、明確な基準もなく<遺跡>としてイメージされてきたのだろう。こうしたことは、旧石器資料の分布状態が「視覚的にまとまっている」という曖昧な基準のみで石器集中部(ブロック)あるいは礫集中部(礫群)として、単位性が抽出されてきた経緯と全く同じ構造である。ある研究者が区分した複数の<遺跡>や石器集中部は、別の研究者にとっとは単独の<遺跡>や石器集中部になりうるのである。
換言すれば、<遺跡>概念は構成単位である遺構・遺物を要素とする「点の集合体」という本来は境界(バウンダリー)のないオープン・システムであるのに対して、遺構概念は「掘り込み」、遺物概念は「もの」という物理的境界によって設定されるクローズド・システムであるという点に決定的な違いがある。」(五十嵐2005「遺跡地図論」:100.)

「遺跡には、過去と現在という二つの時制が同居しているのである。」(127.)というのは、佐藤啓介さんが提起する問題(佐藤2009「物質と時間」【2009-12-24】)を想起させるし、遺跡の他者性とどのように折り合いをつけていくのかというのは(130-1.)、震災津波遺構の保存問題そのものだし、「重要な価値があるとされ保存されて来た遺跡が破棄されるとき、その背後には社会的に大きな転換がある」(132.)というのは、戦時期の天皇聖跡を巡る騒動をすぐさま想起させる。
かように様々な「種」を含んだ論考であるにも関わらず、こうした問題意識が伺えるのは僅かに増渕 徹2013「遺跡と遺跡学 -意味を求めることと語ること-」:114-117.ぐらいで、他の論考には、殆ど見出しがたいという点に、日本遺跡学会、ひいては日本考古学界における本論考の位置が伺えるわけである。
典型的には、20人の出席者によってなされた「運営委員会座談会 日本遺跡学会の現状と課題」では、本論考が提起する様々な問題が何ら論じられていないことである。
ちなみに、私は「座談会」というのは4~5人、せいぜい7・8人でするものだとばっかり信じ込んでおり、20人もの人々が一同に会した「座談会」の掲載写真を見て、認識を改めたのであった。

蛇足として、「五十嵐」という地名が「インカラウシ」→「インカルシ」というアイヌ語由来ではないかという畑 宏明2013「遺跡を遺したのは誰か? 我々は何を保存すべきか?」:162-167.は、アイヌ遺跡の指定割合が平均を下回るという指定バイアスの指摘と共に、大変興味深いものであった。


タグ:遺跡化
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