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荒井2012『コロニアリズムと文化財』 [全方位書評]

荒井 信一 2012 『コロニアリズムと文化財 -近代日本と朝鮮から考える-』岩波新書1376.

「これらの問題(引用者註:文化財返還問題)を解決するためには、まず来歴、流出の経緯などの事実を明らかにする地道な努力が必要である。また現在、朝鮮・韓国の文化財の国外流出問題の背景として、日本の植民地支配の清算という観点が必要である。現在の世界で、文化財の問題が大きな争点となっているのは、第二次世界大戦で文化財の破壊や略奪が深刻な問題となったこと、戦後の脱植民地化の趨勢とともに、コロニアリズムの清算の一環として文化財の原状復帰が国家間の争点として認識されるまでになっていることなど、歴史的背景を考慮しなければならない。」(vi-vii)

先週28日(土)には、筆者を囲んで内輪の読書会が持たれた。
傘寿を過ぎてから新たな分野に挑戦されて、書を出される。「素晴らしい」の一言である。

「私は政治的独立に続くこのような動き(引用者註:文化財返還運動)を、コロニアリズム克服の新しい局面としてとらえ、そのような視点からまず、日本による植民地化の進展により韓国併合前後に文化財がおかれた状況について検討した。植民地化は、近代化、資本主義化と複合しつつ進められたため、とくに固有の伝統や文化財、それを支えてきた民衆生活は大きく変化し、危機に瀕した。克服の対象となるコロニアリズムの引き起こした深刻な現象と見なければ、この時期の文化財をめぐる危機的な状況は理解できない。
その意味で、本書では文化財そのものの歴史ではなく、文化財問題を引き起こした植民地的な状況、植民地主義の構造を主題としたつもりである。とくにそのような構造に規定された治者(植民者)としての日本人がどのように動き感じたかである。のちに述べるように、朝鮮における日本人の欲望自然主義の問題も、日本人の民族性の問題ではなく、植民地支配者としてのある種の解放感と関連するものではないか。」(viii-ix)

谷井済一(9)、梅原末治(11・54・82)、鳥居龍蔵(20)、坪井正五郎・八木奨三郎(22)、黒板勝美(54)、濱田耕作(67)、喜田貞吉(70)等々、正に「日本考古学史」である。
こうした諸先輩方の業績に関する検討について、日本を代表する学会組織が述べた「検討する任ではない」とする自己評価は、自らが未だに植民地主義のなかに浸っていることの表明以外の何ものでもない。

「世界戦争の時代であった20世紀がつきつけた課題は、いうまでもなく持続的な平和の確立であり、その出発点が戦争の違法化であった。戦争の後始末も違法な侵略戦争の責任を問うことからはじまった。しかし世界戦争の前提が、諸帝国による植民地の分割、世界の一体化であったことが認識されるにしたがい、植民地支配責任の究明がさらなる課題となった。
私は、2011年4月の貴重図書に関する日韓協定の審議に際し、衆議院外務委員会で参考人として意見を述べる機会があった。これが長く戦争責任問題を研究してきた私の、文化財に関する最初の公的発言であり、その延長線上で本書はうまれた。国家間の関係の好転のためには、文化財問題についても未来志向の対応が必要であることを重ねて強調しておきたい。」(198.)

1953年の日韓交渉における「久保田発言」、すなわちそちらが要求すればこちらも要求する、あるいは悪いこともしたがいいこともしたといった常に対価を要求する姿勢は、60年前だけではなく、現在においても、宮内庁所蔵図書を返すなら、その代わりに対馬宗家文書をといった形で、常に持ち出される。自らの立場性を弁えない、世界的に決して通用しない歴史認識と言えよう。
これは前々回の記事【2012-07-04】で引用した『日本考古学年報』第1号所収の藤田亮策氏の「朝鮮、中国、台湾、樺太、千島等の調査の絶たれたことは、日本の学者に負わされた最大の損失」という言葉にも相通じるものである。すなわち植民地を失ったことが「損失」であるということは、すなわち植民地を獲得したことが「利益の享受」であったことの表明なのである。そして自らに対する責任追及を出来るだけ軽減するための方策が、常に相手に対してバーター(等価交換)を要求するギブ&テイクの発想である。

こうした姿勢が戦後半世紀以上にもわたり何ら批判もされず発言者は何の痛みも感じずかえって開き直りとさえ思える姿勢を堅持したこと、むしろそのことをもって「重き」をなしてきたこと自体に、日本社会全体の有り様が問題とされてしかるべきであろう。まずは一人一人が人間としての最低限のモラルを回復することが重要である。その時、大英博物館のロゼッタ・ストーンや東京国立博物館の小倉コレクションなどは、かつての植民地帝国が世界に誇るべき遺産から植民地主義のもたらした忌むべき、そして恥ずべき負の遺産に変容することだろう。能天気に「大英博物館展」を見て喜んでいる場合ではないのである。問われるべきは、「何故、これが、今、ここにあるのか?」という問いである。

そして21世紀の今問われているのは、<もの>そのものの価値ではなく、<もの>を見つめる私たちの視線の在り様である。
文化財返還問題は、力を背景に運ばれてきた<もの>を通して、かつての植民地本国に暮らす人々のそれぞれの「こころ」を照らし出す。


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コメント 2

カラス天狗

忘却・隠蔽してはならない問題ですね。

小倉コレクションですが・・・・
『季刊戦争責任研究』72(2011年)の李洋秀論文(「日韓会談と文化財返還問題)に引用された1957年の作成と推定された謄写版刷り(?)の『小倉コレクション目録』では、「小倉武之助所蔵品 種別(時代別)数量」は、「一、先史時代 六四点 二、楽浪時代 八〇点 三、高句麗時代 一七点 四、百済時代 二七点 五、任那時代 二四七点 六、新羅時代 二四一点 七、高麗時代 一三九点 八、李朝時代 一四三点 九、仏像 四五点 一〇、絵画 九七点」となっています。
 手元にある小倉が最晩年(1964年)に発行した『小倉コレクション目録』(私家版)を見ますと、「一、先史時代 六十五 二、楽浪時代 六十八 三、高句麗時代 三十四 四、百済時代 二十六 五、任那時代 二百五十三 六、新羅時代 二百四十一 七、高麗時代 百五十五 八、李朝時代 百五十八 九、仏像・仏画並経文 六十三 一〇、絵画及書 八十六  一一、日本の部 四十六」となってあり、所蔵点数・内容が若干異なっているようです。
 東博に寄贈されたコレクションとの対照が必要になるようにも思います。
 ちなみに、1964年『目録』にも、李洋秀氏が着目した、「伝乾清宮所在志土閔妃暗殺の後室にありしを持来れりと云う」という注記が「李朝時代 百十八 朱漆十二角膳」に添えられています。やはり1964年『目録』も、1957年『目録』を底本に改訂されたと推察されます。
by カラス天狗 (2012-08-08 10:18) 

伊皿木蟻化(五十嵐彰)

何故、朝鮮王朝の王妃が惨殺された時に、その部屋にあった品物を、日本の国立博物館が所蔵しているのか、ということを、多くの人が、しっかりと考えなくてはならないと思います。どのような経緯で入手したのか、そしてそのことをどのように考えるのか。
「1963年11月、千円札が「聖徳太子」から「伊藤博文」に変わった時のこと。ある東南アジアからの華人留学生からこう切り出された。「朝鮮民族の恨みをかつてハルピン駅頭で暗殺された伊藤博文を、いまになってなぜ登場させるのか。日本人の歴史認識はどうなっているのか。それに日々の生活の中で、この千円札を使う在日朝鮮人のことも、少しは考えたら…」と。」(田中 宏2012「まえがき」『未解決の戦後補償 -問われる日本の過去と未来-』創史社:4.)
by 伊皿木蟻化(五十嵐彰) (2012-08-08 19:19) 

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