SSブログ

『下原・富士見町遺跡Ⅰ』 [考古誌批評]

明治大学 2011 『下原・富士見町遺跡 Ⅰ 近世~近・現代の発掘調査 2004~07年度明治大学付属明治高等学校・明治中学校新校舎建設予定地における埋蔵文化財発掘調査報告』明治大学校地内遺跡調査団調査報告書3

「調布飛行場とその周辺は、近年、戦争に関連した近・現代遺跡として注目されていて、戦争の語り部としての役割を期待されている。またこれに連動した市民運動も展開されるところとなっている。調査主体者としての明治大学は、三鷹市・調布市教育委員会とも連絡をとりながら、このような状況を考慮して、近世につづく近・現代遺跡も調査対象として設定することになった。そのために、結果としてではあるが、近・現代に大きなウェイトを置いた報告となった。」(220.)

「近・現代遺跡としての調布飛行場とその周辺」と「下原・富士見町遺跡」の相互関係は、どのように理解されているのだろうか?

「本遺跡で検出した掩体壕跡は、第2次世界大戦時に、調布飛行場に付随して作られたものであるので、本遺跡の西方に調布飛行場があるというよりも、むしろ、本遺跡が調布飛行場の東側に位置するとした方が適切であろう。」(8.)

「近・現代遺跡としての調布飛行場とその周辺」とは述べられるが、「調布飛行場遺跡」とは決して記されることはない。何故だろうか。
それは、「調布飛行場」という近現代における<遺跡>概念を明確に規定することが困難である以上に、調布飛行場<遺跡>と行政調査の対象となった従来の<遺跡>概念、例えば「下原・富士見町遺跡」との整合性が取り得ない、両者の相互関係を位置づけられないためであろう。

「大沢グラウンドでは、地上構造は全く残っていなかったが、2基の有蓋掩体壕の地下構造が確認された。また、グラウンドの整備工事中に、2機分の陸軍三式戦闘機と1機分の陸軍五式戦闘機のプロペラ等が発見された。」(15.)

こうした困難さが、最も顕著に現れたのが、「下原・富士見町遺跡」と道を隔てて隣接する「大沢グラウンド」である(三鷹市教育委員会・三鷹市遺跡調査会2010『大沢総合グラウンド整備事業に伴う埋蔵文化財発掘調査報告書 東京都三鷹市大沢推定地域』)。
巻末には「試掘調査をもって終了することについて」と題する異例の一文が付され、「報告書抄録」の「所収遺跡名」は「大沢推定地域」とされるが、「遺跡No.」の欄は「空白」である。

「本報告書では、上述のように、いかに報告すべきかに留意した。しかしここに力点をかけたために、遺跡の性格と、遺構および遺物の組み合わせならびに出土状況から、どのような様相が描けるのかという部分に配慮が足らなかったかもしれない。」(221.)

「戦争遺跡」という用語を検討したり、「近・現代遺跡」を分類したり、あるいは「軍事関連遺構」を分類するために軍関係資料を調べたり、といった作業も必要だろうが、まずは調査研究の対象としての<遺跡>をどのように認識しているのかという点について明確に示すべきではないか。
「下原・富士見町遺跡」も「大沢推定地域」も、「調布飛行場遺跡」という総体の一部であることを認識しない限り、前に進めない。そして「下原・富士見町」と呼ばれた区域も「大沢総合グラウンド」と呼ばれた区域も、たまたま前者は先史資料の存在をもって「包蔵地」とみなされ、後者はその存在が確認されなかったことをもって「包蔵地」とはみなされなかった、ということを。

ちなみに「下原・富士見町遺跡」については、4年前の文章では明確に「調布飛行場遺跡」の一部として位置づけられていたのだが(遠竹 陽一郎2007「旧日本陸軍調布飛行場における施設配置について」『明治大学校地内遺跡調査団 年報4』:152.)。


nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(0) 

nice! 0

コメント 0

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

トラックバック 0