SSブログ

考古学基礎構造論 [総論]

考古学という学問は、2本の足で立っている。
一つは「歴史研究」という足であり、
もう一つは「モノ研究」という足である。
両者は、別個に存立している訳ではない。
双方が相互に影響を及ぼし合っている。
過去は現在に作用し、
現在は過去に作用するように。

ところが考古学、特に「日本考古学」という領域では、
歴史研究しか存在しないが如くである。

「どんな学問の世界でも、方法に関する書物は、その学問の発達進歩と並行して、くりかえしあらわれるのが普通であるが、考古学の世界では、それが殆どおこなわれていない。
(中略)方法と実際の研究活動は、いかなる場合にも、車の両輪であるはずだから、考古学をのせた荷車は、ごとごと音のする小さな木製の車輪とたっぷり空気の入った大形のゴムタイヤの車輪を装着しているようなもので、さかんに動くけれどぐるぐる廻るだけで、先に進まない。」
(近藤義郎1964「訳者あとがき」『考古学の方法』:219.)

考古学は、モノを通して過去を探る学問である。であるからして、その方法は必然的に「モノ研究」あるいは「痕跡学(トラセオロジー)」とならざるを得ない。
今から47年前に「ぐるぐる廻るだけで、先に進まない」と評された私たちの荷車は、いまだに同じような場所をひたすらぐるぐる廻っているようである。
その間に一世代に相当する月日が流れたにも関わらず。

例えば『史学雑誌』という歴史研究の雑誌がある。
ここで「回顧と展望」という論評が年に一度掲載される。
『史学雑誌』というくらいだから、歴史研究の視点で編集されている。
当たり前である。
考古学の活動もそうした視点で過ぎ去った一年間が「回顧」され、行く末が「展望」されるわけだが、歴史研究の枠組みで論じられるため、そこにモノ研究の収まりどころがない。

片方だけで全体は、論じられないのである。
歴史研究だけで、考古学が論じられると信じられている気配が濃厚である点に、「日本考古学」の致命的な点を見る。

私も数年前までは、もやもやしたものは感じつつもはっきりと認識することができなかった。
しかしやはり
「考古学というのは2本足で歩くフィールド・サイエンスである」
ということをはっきりと認識することが必要ではないか。

学の根本に関わる問題である。


nice!(2)  コメント(1)  トラックバック(0) 
共通テーマ:学問

nice! 2

コメント 1

伊皿木蟻化(五十嵐彰)

遠方の友へ。
コメントありがとうございました。一部手直しをいたしました。
「あなたを畏れる人、あなたの命令を守る人
わたしはこのような人の友となります。
主よ、この地はあなたの慈しみに満ちています。
あなたの掟をわたしに教えてください。」(詩編119:63-64.)
by 伊皿木蟻化(五十嵐彰) (2011-07-01 23:10) 

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

トラックバック 0