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新たなプラグマティズム(6) [論文時評]

3つの「R」:返還・和解・補償 The Three R's: Repatriation, Reconciliation, and Restitution : 23-28.

私たちは、20世紀前半に現れた世界的な市場資本主義、自由貿易政策である新自由主義社会に生きている。これはしばしば「グローバリゼーション」とも言われる。考古学も無縁ではない。むしろ密接な関係があると言えよう。
例えば、世界遺産。今や猫も杓子も、世界遺産である。
世界遺産に関する言説は、人権問題と結びついて現実世界に対して劇的な影響を及ぼしている。
There is now a global heritage discourse increasingly attached to human rights issues that is having dramatic real-world consequences.

所有権と表象問題を考慮することなく、博物館の展示を行うことは不可能である。
It is no longer possible to mount a museum exhibit and not consider issues of ownership and representation.

1964年にヴェニスで「第2回歴史的記念物の建築と技術に関する国際会議」が開催されて、古代建造物の保存と修復に関するガイドラインが制定された。この「ヴェニス憲章」が「国際記念物遺跡会議(イコモス)」発足の契機となった。
1979年にイコモス・オーストラリア支部は、南オーストラリアのブッラという歴史的な鉱山で「ブッラ憲章」(Burra Charter)として知られる遺産保存に関する国際基準を採択した。「ブッラ憲章」の重要性は、その適応対象が土地所有者、企業経営者、管理人など様々な利害関係者総体であるということである。その文化的重要性は、その土地に対して特別な利害関係を有する人々から社会的・精神的に異なる文化的背景を有する人々も含み、過去・現在・未来の世代にわたり、美的・歴史的・科学的・社会的・精神的なあらゆる価値として定義される。すなわち歴史的な場所というものが、異なる個人や集団にとって、幅広い価値を有することが宣言されたのである。

「ブッラ憲章」は、考古学的な実践活動に対しても具体的な影響を与えた。マヤ考古学では、「天蓋の考古学」(archaeology under the canopy)というアプローチが知られている。「天蓋の考古学」では、発掘によって検出された記念物を露出させることなく、先住民らの伝承に従って熱帯降雨林の葉によって覆うことで、記念物を保護している。

先住民族の遺産と土地権利における最も重要な成果は、カナダ北西部自治区における「ヌナバット」(Nunavut)の創設である。「ヌナバット」とは、東部北極イヌイットであるイヌクチタット語で「我々の土地」を意味する。
1973年にカナダのイヌイット・タピリサットはカナダ政府と土地に関する交渉に入り、ヌナバットの創設を提案した。1982年には北西部自治区で国民投票が行われ、1992年には85%の賛成により土地所有が承認され、1999年に先住民主体の土地管理に移行した。

イヌイット遺産トラスト(Inuit Heritage Trust: IHT)は、イヌイットの文化遺産の保護・強化・保存に用いられ、ヌナバット内の考古遺跡、民族誌的資源、伝統的地名の同定・保存作業がなされている。
「ヌナバット地名プログラム」は、伝統的なイヌイット地名を保存する試みである。
「ヌナバット考古学プログラム」は、ヌナバット内での考古学的調査に関する管理と保護を行なう。
「旅する博物館プログラム」は、遺物・写真・文書を複製し、ヌナバット社会を旅行する企画である。展示はイヌクチタット・イヌイナクタム・英語の多言語でなされている。

こうした試みは、日本においてもなされるべきである。
最近は駅名などの表示でイギリス語表記のほかに、ハングル表記なども併記されるようになってきたが、まずは北海道地域でのアイヌ語の併記がなされるべきである。
「北方領土」と呼ばれる土地領有に関する協議の場にも、アイヌ民族の代表が参加すべきである。

アメリカでは1990年に「アメリカ先住民墓地保護保管法(NAGPRA)」が制定された。これはアラスカ先住民・ハワイ先住民を含む人々の遺体、副葬品、聖なる遺物、文化的な相続遺物を保護し返還することを規定している。返還される対象は、「文化的帰属認定」がなされることが必要条件となる。
NAGPRAが制定されるのにも長い歴史がある。1966年の国立歴史保存法から1974年の考古学・歴史保存法、1978年のアメリカ・インディアン宗教自由法、1979年の考古資源保護法などを経て、アメリカ・インディアン博物館を設立する計画の一部として具体化した。

アメリカ考古学会およびアメリカ博物館協会は、NAGPRAに対して極めて否定的な反応を示した。なぜならこうした法律が、科学的な発掘調査や博物館における展示を困難にすると危惧したからである。しかし今や、こうした心配は殆ど杞憂であったことが明らかになった。NAGPRAは、アメリカ考古学に大きな利益をもたらすとみなされている。すなわち考古学者、文化人類学者、博物館学芸員などと先住民集団が密接に交流することで相互理解が深まっているのである。

1994年に南アフリカは初めての多民族による民主的選挙を行ない、新たな国づくりに歩み出した。そうした過程で直面した困難は、アパルトヘイト体制でなされた人権暴力をどのように扱うかという問題であった。こうして新政府は「真実和解委員会」を設置して、1960年から1994年までになされた様々な暴力に関する調査と記録を行なった。「語られない犠牲と不正義」を公的に認知することで、犠牲者の尊厳を回復させる機会を与えることになった。こうした真実和解のプロセスは、人権と自由な民主主義を確立するために必要なプロセスとして、南アフリカにおける新たな政治的な特性を確立するために欠かせないものであった。

それまでの考古学的言説は、アパルトヘイト体制「ホームランド政策」を正当化するために用いられてきた。南アフリカは、白人移住がなされる18世紀までは不毛な土地であったということが繰り返し述べられてきた。そのためグレート・ジンバブエのような古代遺跡は、先住民によるものではなく移住民による産物と解釈されてきた。過去、すなわち考古学的な解釈が、現在の政治のために利用されてきたのである。

2006年にイタリア政府とメトロポリタン美術館は、有名なギリシャの壺の所有権をめぐる34年にわたる抗争に終止符を打つ歴史的合意書にサインした。メトロポリタン美術館は、その壺を100万ドルで古物商から購入した。美術館は合法的に入手したと主張したが、2005年に他の略奪品と共にジェノヴァの倉庫に存在したことを示す証拠写真が見つかった。イタリアの裁判所は、問題の壺が1971年にエトラスカン期の墓から盗掘されたものと判断した。長期にわたる交渉の末に、両者は返還について合意に達した。こうした合意は完全ではないにせよ、博物館という組織が行なう収集行為について、一定の基準を与える国際的なモデルとなった。

こうした事例は、考古学が扱っている「過去」が決して現代社会と切り離すことができない、むしろ現代社会が要請する必要性に基づいて過去を構築しているという当たり前の事柄を示している。過去に関する闘争が、政治的な場面で競合する事例がますます増加しつつある(リン・メスケル編2005『戦火の考古学:東部地中海・近東におけるナショナリズム、政治、遺産』)。
特定の遺物・記念物の所有権を巡る問題。朝鮮王室儀軌、利川五重石塔、小倉コレクション、・・・
現在の考古学者は、様々な場面で西洋的な興味に基づいて、異なる人々の過去を一方的に表象してきた植民地的な歴史に遭遇している。
これは、植民地的な過去を有する諸国の考古学にとって、避けることのできない事象である。

「いけないのは、何もしないことだ。」
これは、電車の中で見かけた多重債務の解決を専門とするある法律事務所の宣伝コピーである。
植民地的過去に起因する様々な「多重債務」を負っている旧植民地帝国日本、
「日本考古学」の在り様が、問われているわけである。


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