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協会蔵書問題の本質は? [雑]

スペインやコートジボワールで「日本考古学」をやりたい学生は、「協会蔵書」がイギリスにあれば、確かに便利かも知れない。しかしそれと同じくらい、いやそれ以上に台湾やモンゴルで「日本考古学」をやりたい学生がいることだろう。そうした人々にとって「協会蔵書」がイギリスにあることは、果たしてどれほど便利なことなのだろうか。

さらに考えなければならないのは、「協会蔵書」は一つの契機にしかならず本当に「日本考古学」を研究しようと思うのなら、遺物がある場所すなわち日本に来なくてはならないということである。遺物が収蔵されている場所、遺跡が保存されている場所とそれらを報告した資料を集積した中心的な書誌群は、同じ場所にあるべきではないだろうか。

さらに問題なのはイギリスに寄贈された後の「協会蔵書」の質(クオリティ)である。寄贈後も現在までの収集率が維持される、同じような規模と量の寄贈図書がイギリスに向けて発送され続けると楽観的に考える人はまずいないだろう。すなわちイギリスに寄贈された「協会蔵書」は、2010年以降の最新情報について大幅なレベル・ダウンが避けられないということである。イギリスに送られた「協会蔵書」は、今後「日本考古学」に関する中心的な書誌群としての資格が急速に失われる可能性が極めて高いということである。このことに関して「推進派」の人々は決して言及しないが、常識的に考えてまず間違いないところだろう。

すなわちオランダやブルガリアで「日本考古学」を志す学生がイギリスに行っても、最新のデータを調べるためにはやはり日本に来なければならないということになってしまうのである。

さらに問題なのは、国際学会などで何度も海外に行くことができるような余裕のある研究者はいいだろうが、海外旅行など夢のまた夢といった日本の苦学生や貧しい研究者はどうなるのだろうか。

「日本考古学」の中心的な情報センターは、やはり「青春18キップ」で行ける範囲に存在するほうがより利便性は高いと私は思う。

「日本考古学」の拠点が海外に存在することは、大変意義深いと思う。しかしその拠点を作るために何も本来日本に「考古学情報センター」を構築するために長年にわたって集積されてきた中心的な書誌群を当てなくてもいいのではないか。これは「どちらがコストパフォーマンスが高いか」といった損得勘定を越えた問題である。

様々な人々の様々な思いが集積した、他の何ものにも代えがたい「協会蔵書」である。膨大な公的資金を(もちろん私的資金も)投入して「記録保存」という名目で形成されてきた中心的な書誌群としての「協会蔵書」である。多くの人々に発掘調査の費用負担をお願いして得られた成果は、やはりその人々に対してこそ正しく還元していかなくてはならないのではないか。「日本考古学」に関係する者は、その責任と義務を負っていると思う。


タグ:協会図書
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