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加藤2006『ジェンダー入門』 [全方位書評]

加藤秀一 2006 『知らないと恥ずかしいジェンダー入門』 朝日新聞社

一見すると考古学と無関係と思える書籍を読んでいて、内容そのものではなく、その考え方、思考の道筋という点において、自分が抱えている問題と感応する部分に巡り合うということがある。
例えば、男女の区別(性別)というのが生物学的には根拠づけられないことを論じた後に続く以下の段落。

「生物学者のなかには、そうした事例は非常に少数の「例外」なのだから、性別の基本を考えるときには無視すべきだと主張する人もいます。そんな事例をとりあげても男性と女性が連続しているとは言えないと。しかしこれは論理的には完全に倒錯した議論であって、<性別そのもの>の根拠という問いの意味を全く理解しない、浅はかな反論にすぎません。
「例外」という概念は「例外でない」もの、すなわち基本形を、あらかじめ前提としています。けれども私たちが問うているのはその前提そのもの、すなわち基本形とされる二元的性別そのものの根拠なのであり、したがって「例外」を切り捨てるなどということは許されないのです。それは単に問いそのものを打ち捨てることにほかならないからです。」(73-74.)

例えば、「<遺跡>というものは、区切れない」という意見を述べたときに示される様々な反応。
「そんなことを言っても、実際に<遺跡>は存在するんだし、区切らないと埋文行政はやっていけないじゃないか。」
あるいは
「現にあなたも「区切られた<遺跡>」を前提とした仕事をしているじゃないか」
等々。

しかしこうした反応は、区切られる<遺跡>という根拠そのものを問うているという点について、あるいは自らを含む埋文行政という日本のシステムに立脚した「日本考古学」の在り方そのものを問うているということを理解しようとしない(理解したくない?)「浅はかな反論」と言わざるを得ない。

「このように、一方には肉体そのものにおける<性別の多様性>があり、他方には<性別の二元性>という確固たる観念がある。この両者のあいだの明らかなギャップを埋め、二元的性別という<現実>を維持するメカニズムは何か。これが私たちの探求の次なるステップです。
ここで私たちは、思考の向きを転換させなければなりません。肉体という対象そのものに二元的性別の根拠が見つからなかった以上、それはどこか別の場所にあるはずです。けれども、肉体以外のどこに性別があり得るのか。
その答えは、肉体という対象を見つめる私たちの<まなざし>そのもののなか以外にはあり得ません。より正確に言えば、私たちが肉体を見つめるその<まなざし>と、見つめる対象としての肉体との関係性のなかから、二元的性別という<現実>は立ち上がってくるのです。」(74-75.)

加藤氏の言う<まなざし>を、私は遺跡問題において「遺跡化」と呼んだ。
「<遺跡>は、単に「そこにある」といった存在ではない。複雑な利害を調整した上で「そこを<遺跡>とする」として設定される社会的なプロセスを経た構築物である。<遺跡>化とは、濃淡様々な価値を含んだ土地を分節し、<遺跡>なるものがあたかも実体として存在するものの如く産出される過程、<遺跡>が物象化されるメカニズムをいう。」(五十嵐2007a「<遺跡>問題」:251.)

確固たる観念である「<遺跡>の実在性」、あるいは「<遺跡>の計量可能性」について何の躊躇いも感じられない論調、微動だにしない考古資料の「二元的<遺構-遺物>体制」。

客体としての研究対象の在り方とそうした研究対象を対象として切り取る私たちの主観。これらを「まなざし」という「関係性」の視点から捉えなおすことが、今何よりも求められている。

「性別はむしろ一方的に客体化され、肉体という対象そのものに刻み込まれているとみなされています。これを<関係性>という視野のなかに置き直し、これまでとは違うやり方で分析するためには、まずは性別という現象をとらえる私たちの側の主観的な契機、言い換えれば認識のあり方そのものを、分析対象としてとらえ直すことから始めなければなりません。」(76-77.)

加藤氏の言説は、日本考古学における第2考古学という立ち位置を考える際に、非常に示唆的である。加藤氏については、「<遺跡>問題の社会学的根拠」【2008-03-24】においても『性現象論』を採り上げて言及した。


タグ:<遺跡>
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