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訳分からん研究会 [総論]

訳が分からない研究会ではない。
訳が分からないモノを研究する研究会である。

「フェティシズム経験をモノへの耽溺やモノの持つ力として説明するだけでなく、「モノが人間を否定する」という一面 -モノが人間との関係を切断することではじめて現出するねじれた関係性- が伏在しているという可能性を認めることは、フェティシズムの多様性、そしてモノそのものの潜在性を捉える上で一考する価値があるはずである。」(佐藤 啓介2009「モノを否定する、モノが否定する」『フェティシズム論の系譜と展望』京都大学学術出版会:86・87.)

私たちの身の回りにあふれるモノたち、捨てても捨ててもまとわりつくモノたち、あるモノは必要だから、あるモノは必要でないにも関わらず存在している。
それらは全て「訳分かる」モノたちである。なぜなら「訳分かる」すなわちある特定の使用価値があり、交換価値があり、その存在意義を私たちが十分に弁えているからこそ、存在していると言えるのである。しかしその存在意義は、全ての人に遍く共有されているとは限らない。

現代芸術では、こうした私たちの前提、常識を覆すことを主たる目標としている。匙どころかエンピ(円匙)を投げてしまうようなクエスチョン・マークが幾つも連なる「訳が分からないゲージュツ」は、こうして全盛を極める。
展示用に持ち込まれた「作品」が、「ゴミ」と間違えられて廃棄されてしまった、という。

そうした「訳分からないモノ」の一つに、過去の考古資料がある。現代に生きる私たちの社会・文化と切りはなされてしまった過去のモノたち。
何に使ったのか、どのように使ったのか、用途がさっぱり見当がつかない資料。

「蜂巣石(はちすいし):石皿・石棒・丸石などの表裏に多数の浅い孔があいているところから、蜂巣石・雨垂石ともよばれているが、孔は研磨されたものと、敲打によるものがみられる。(中略) かつて発火石ともいわれたが、火鑚臼にしては、石では発火しない。用途については不明である。」(吉田 格1983『日本考古学小辞典』:260.)

遺物だけでは、ない。縄紋中後期に特徴的な「敷石住居」なども「訳が分からん」遺構である。
縄紋だけでは、ない。僅か数百年前の近世江戸時代でも「訳が分からん」モノは、沢山ある。
例えば、馬蹄形状の板材に円孔が複数施される通称「マンボウ形木製品」(『愛宕下遺跡Ⅰ』第1分冊第162図-9)あるいは柱穴間に砂利敷を伴う方形状の木組遺構(同第2分冊第86図)など。

「訳が分からない」と言えば、「土坑」と称する穴ぼこたちも、用途が明確ではなく特定の名称が付けがたいことから「土坑」という名の「その他」カテゴリーに放り込まれている訳だが。

それでは、「訳分からん研究」とは、具体的にどのような研究を指すのだろうか?
古くは、「栓状を呈し、その中軸に縦に漏斗状の穿孔を有する鹿角製品」である「浮袋の口」について述べた甲野 勇1939(「所謂“浮袋の口”に就て」『人類学雑誌』第54巻 第2号:1-13.)。
新しくは、導入部に「イカリ型をしたプラスチック製品」という現代遺物を据えて、「異形局部磨製石器」いわゆる「トロトロ石器」について論じた岡本 東三1983(「トロトロ石器考」『人間・遺跡・遺物』:119-145.)。

「訳分からん」モノは、私たちを動揺させ、不安にさせる。曖昧模糊として、宙ぶらりんな状態である。
自らの理解を超えたモノに、あたかも自分が否定されたような気持ち。
叡智を集めて「訳分からん」モノを集め、どこがどのように「訳分からん」のか、叡智を集めて「訳分からん」モノを「訳分かる」ようにしよう。
そうした研究を通じて、モノのモノたる所以が、私たちとモノとの「ねじれた関係性」の一端が明らかになるだろう。


タグ:研究 もの 説明
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