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研究、抜け落ちるもの [総論]

抜け落ちるもの、それは我が頭髪にあらず。 

世の中の多くの考古学者は、「遺跡」を研究している。しかし「遺跡問題」を研究している考古学者はほとんどいない。
私は、誰もが研究する研究をしようとは思わない。自分にしかできない研究をこそしたいと願っている。

「遺跡問題」を抜きに、日本考古学を考えるということは、日本考古学の本質、すなわち「捏造体質」から眼を逸らすことであり、問題の真の解決には決してつながらないのではないか。

何を研究テーマとするか、すなわち何を解決すべき問題と考えるかということで、その人の、あるいはその組織の、あるいは学会の当事者意識が判断できる。
資格制度。 近代以前の日本考古学史。

「先ほども述べたように、現在、「第一世界」つまり先進工業世界である日本において「第三世界」が語られるとき、とくに「第三世界」の女性が語られるときに、レイシズムの問題が抜け落ちるということがよくあります。抜け落ちたまま語られることによって、レイシズムの問題が再生産されてしまう。それは、日本の植民地主義的侵略の歴史に対する認識が決定的に欠落しているから生じるのだと思います。
戦後の日本社会で過去の植民地主義の歴史がいまだ清算されていないこと -しかし、歴史を清算するとはどういうことでしょうか? 借金を清算するように、たとえば個人補償を実現したなら、加害の歴史が消し去られてしまうのかどうかも、私たちは同時に考える必要があると思います- そのことが、植民地主義に対する責任意識の欠落という形で、植民地主義的な表象として現れているということを一方で論じると同時に、日本における植民地主義の歴史の「記憶」の問題をたとえばパレスチナ人の不条理な虐殺の「記憶」の問題と接合させることで論じていく。」(岡 真理2003「世界の現実に批判的に介入する文学の<不/可能性>とは何か」『研究する意味』:198-9.)

引用文の「文学」を「考古学」に置き換えて、2009年に考古学を研究する意味、「世界の現実に批判的に介入する考古学の<不/可能性>とは何か」について考える。
単に近現代の遺構・遺物を報告するのではなく、近現代資料の報告を通じて先史資料との違いを考え【2009-03-11】、調査区の近現代履歴を明らかにすることで「遺跡問題」を考え、あるいはそうした作業を遂行することが様々な要因によって困難となるといった経験を通じて、「日本における植民地主義の歴史の「記憶」の問題」が、さらには日本考古学における「植民地主義に対する責任意識の欠落」という問題を確かめることができるだろう。

「僕が本書の冒頭の章を、このようなことから書き始めるのは、未来の多い若い研究者諸君が、自ら選んだ「研究」というこの自由な、そして生涯楽しむことのできるはずの仕事を、ただ若いあいだだけの短命の仕事に終らせず、僕みたいな高年齢になってからも、ぜひとも続けて楽しんで欲しいと切に願うからに他ならない。そのためには、ともかく若いうちから研究の問題意識を、自分自身の内発的な興味を燃やすことで喚起する習慣を養い、それへ向けての自己訓練を日夜積むよう心掛けて欲しいと願う。
大へん残念なことだが、僕がこれまで勤めてきた大学で、直接指導した大学院生たちの研究論文テーマ選択を見ていても、研究のテーマを自分自身の眼で現実のなかから発見し、自分自身の頭で分析の筋道を構築することに努める者の数は極く少数であった。彼らは学界流行の亜流のような、ありふれた陳腐な論文テーマを選ぶ者がほとんどである。それは流行に乗り遅れまいという態度ではあっても、研究や分析を本当に自分自身で楽しもうとする態度からは遠い。若い研究者の卵をそのように仕向けた責任の半分以上は、彼らを教育し指導してきた教師たちにあることも、ここでは指摘しておきたい。」(林 周二2004『研究者という職業』:52-3.)

今なすべき研究とは何だろうか?
個人として、学会として。
一時の流行に飛びついたありふれた陳腐な研究ではない、自分自身で見出した内発的な興味に基づく研究。


タグ:研究
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アヨアン・イゴカー

研究対象だけでなく、方法論自体も問題になる、この二つは不可分で常に両方がなければならないと思っています。方法を頻繁に変えると、科学的データが十分に揃わないのでしょうが、間違った方法を一生続けてしまうのは、いかにも残念なことです。私は科学的方法を、芸術に置き換えて考えています。
>流行に乗り遅れまいという態度ではあっても、研究や分析を本当に自分自身で楽しもうとする態度からは遠い。
芸術に於いても全く同じことが言えるのではないかと思いました。時代の最先端、もっとも話題性のある作品ばかりに目が行き、そうでないと取り残されてしまっていると考える傾向があるのではないか、と。それ故に、殆どの「芸術作品」が亜流でしかなく、後世には評価されないのではないかと。
by アヨアン・イゴカー (2009-03-18 23:42) 

五十嵐彰(伊皿木蟻化)

動機・内的欲求に基づく → やりたくてやった研究 → 面白い研究 → 本物の研究
動機・外的欲求に基づく → しかたなくやらされた研究 → つまらない研究 → 研究という名の事務作業
以上、山口ショーバン先生の学問・研究の二分論に基づく構図。
「本物」という言葉も多義的ではありますが、一つの目安として、10年後、20年後に残るものというのがあるのではないかと。
by 五十嵐彰(伊皿木蟻化) (2009-03-19 12:55) 

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