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第2考古学的転回 [総論]

ある人が、自らの研究について
「僕のは一見、単なる編年研究に見えるかも知れないけれど、目指すところは、君と一緒だよ」
といった趣旨のことを述べられた。

そのことの意味について、考えていた。

「オープン・ラボ」と題した記事【2008-11-05】に対して、「普通の人たちは、目の前の考古資料が何であるかといったことよりも、なぜそう考えることができるのかということに関心があるのではないか」という示唆的なコメントが寄せられた。
本当に、そう思う。

とかく専門家なる人たちは、自分たちの関心のあることに、周りの人たちも関心があるだろうと思い込む傾向にある。そしてそこに「できるだけ正確に」という真面目さが加味されると、普通の人たちには訳の分からない独りよがりの言説が出来することになる。

考古学に関心のない人あるいは少しは関心のある人たちは、極端に言えば目の前の土器が何式であろうと構わない。関心のあるのは、どうしてこれがAとされて、Bとされないのか、どのような方法的原理によってそのような結論が導かれるのか、それはどの程度の確かさを有しているのか、そうした方法はその時代の土器にしか通用しないのか、それとも石器でもあるいは陶磁器にでも通用するのか、そのことによってどのようなことが明らかになるのか、といった「態度と方法」のことではないだろうか。

「考古学は過去人類の物質的遺物(に拠り、人類の過去)を研究するの学なり」

私たちは「物質的遺物」を、あるいは「人類の過去」を研究することを目指して、分類し、命名し、時空間のマス目に並べてきた。しかし考古学は、それだけではない。「物質的遺物に拠り」、すなわちどのような方法で、どのような原理で、どのような考え方に基づいて、「人類の過去」を研究するのかについて、より十分な第2考古学的研究がなされなければならないだろう。

「日本の考古学は、誕生後まもなく天皇制の抑圧の下に歴史学としての発展をおしとどめられ、国民と遊離したなかで個別的形態論にとじこもるという歴史を歩んできた。国民の歴史意識の形成にかかわる歴史学と分離していた考古学の研究は、一般国民には暇潰しの骨董屋の仕事と思えただろうし、その扱う資料は珍しければ骨董品、美しいと思えば美術品とうけとられたのは当然である。戦後になって神話がしりぞけられた空白に、まるで当然の顔をして考古学は乗り込んでいったけれど、充分な反省をせずに戦前、戦中とさして変らない態度と方法のまま、研究の自由を享受してしまった。調査技術はたいへん進んだし、発掘規模も研究分野も拡大したし、資料は莫大な量に達したけれども、中味はさして変っていないように思われるのはそのためである。ここにこんにちなお、古物への親しみと考古学への理解との断絶が生きつづけているゆえんであると思われる。」(近藤義郎・木村祀子1969「訳者はしがき」『考古学とは何か』)

「さして変らない態度と方法」というのは、こうした文章が書かれてから40年!が経過しても「さして変らない」し、「中味はさして変っていないように思われる」のは、いったいどうしたことだろう。
いったい・・・

考古学とは、ものを通じて、ものが残された経緯(過去)を明らかにする。そのためには、ものを取り出し、取り出したものや取り出された場を図化し、写真に撮り、文字にする。もの言わぬもの・場を私たちが言葉に置き換えなければならない。そのとき問われるのは、どのようなものを、どのように区分して、どのような言葉にしているか、である。

「言葉ともの」の相互関係を考える営みが真の「考古学への理解」へと通じる。そのとき「古物への親しみ」あるいは「編年研究」という名の「個別的形態論」は、ある限定された領域での行為に過ぎなくなるだろう。

それは、どのようなことを意味しているのか。
例えば「古物への親しみ」、私の言葉で言えば「先史中心主義」に関して述べてみよう。
かつて「もの」に残された痕跡をめぐる考察の中で、「エントロピー的見解」と「変形論的見解」という重要な提言がなされたことがあった(佐藤2004「あとにのこされたものたち」本ブログ論文時評【2005-09-16】参照)。
こうした提言に基づいて、私なりに発展的に翻案すれば、以下のようになる。
過去の一時点すなわち先史を特権的に重視し、以後の痕跡は情報量の減少すなわち「劣化」(あるいは「撹乱」)と捉える「エントロピー的考古学」から、近現代を含めた様々な痕跡の重複を情報量の増大すなわち「付加」(あるいはパリンプセスト)と捉える「変形論的考古学」へのパラダイム・シフト。
こうした考古学観の決定的な転回を経た者は、従来の「第1的」な領域に留まり続けることが困難となるだろう。そして必然的にその考古学的な「態度と方法」の吟味といった「第2的」な研究へと、たとえ全面的にではないにせよ幾ばくかは変質せざるを得なくなるのではないか。

そうした兆しが、そう、僅かではあるが、そこかしこに見え隠れしているような気がしてならない。


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さとう

明けましておめでとうございます。新年早々、拙論の名前をあげていただき、ありがとうございます。

さて、年明け早々議論を吹っかけるのも何なのですが、一点気になります。

> 考古学に関心のない人あるいは少しは関心のある人たちは、極端に言えば目の前の土器が何式であろうと構わない。
> 関心のあるのは……「態度と方法」のことではないだろうか。

前半については全く同意なのですが、後半にはあまり同意できません。そうした知的関心を持つ層は、すでに(他分野において)何らかの学問的な好奇心に満たされた層でしかないのではないかと思います。もちろん、第一に念頭にあるのがそのような層である、という限定付きならそれで構わないのですが、一般的にいえば、考古学に関心のない人が抱く関心は「で、それが何の意味があるの?」「で、それが何の役に立つの?」というものではないでしょうか?(無論、若干の否定疑問文的意味合いも含めて)

考古学に対するそうした関心をいくら「珍品古物趣味」と評そうが、私たち人間個々人の「関心の有限さ」からすれば、どうしてもそうした関心しか抱けない層が存在することは否定できないと思いますし、さらには、そうした関心ですらそれでも関心として存在していたからこそ、考古学という学問が今も「制度」として存続しえている、とすら言いうるのではないかと。そこを無視して方法への関心の存在を自明視するのは、それこそこれまで考古学を支えてきた「顧客」にあぐらをかいているように感じられます。

もちろん、それ以外に啓発教育的関心、市民運動的関心、愛国・郷土愛的関心、などもあるにせよ、いずれも「なんかの意味」という「おまけ」がないと、関心は生まれませんし、またたいていはその場合においてのみ、考古学的「方法」への関心も向くのではないと思います(私も含めた、一部のものそのものフェチを除く)。そして、時には主従逆転し、おまけだった意味が主になり、考古学的営為の側がおまけになり、「方法」への関心が再び後退することもあるのでしょうが。

ただ、それらの関心のいずれも、特に否定すべきものでもないでしょう。多元的な関心があっていいと思います。ただ、それに応じて、ひょっとしたら多元的な「第2」もありえるのではないかと思います。「珍品懐古主義的な第2」という可能性すらも含めて。
by さとう (2009-01-02 02:57) 

五十嵐彰(伊皿木蟻化)

貴重なコメント、ありがとうございます。
私も「そうした関心」、例えば「古代文明ミステリー 第3弾ビートたけしの‘新・世界七不思議‘地底都市カッパドキア新発見!」(1日21時~テレビ東京)とか「歴史冒険ミステリー 世界のピラミッド徹底解剖!!人類史上最大の謎を解けSP! 古代エジプト真打登場!! ツタンカーメンの黄金300兆円を超えるか!?クフの墓&秘宝を探せ」(2日18時半~TBSテレビ)といったものを、否定するわけではありません。
しかし「今年の日本考古学」といった回顧記事で、どこそこで何が発見されたか、私の10大発見は、といったことばかりで、そうしたものを目にしながら、私などは、それでは、日本考古学において今年提出された新たな「態度と方法」はいくつあるのかな、などと思ってしまうへそ曲がりな性格から出た由縁なのでしょう。
当然のことながら、いろんな考古学(archaeologies)があっていいと思います(あるべきでしょう)。そして当然のことながなら、「珍品主義的な第2」というのもあり得るかと思います。ただ一方では、「第2的」精神を有した「珍品主義」というのは、なかなか成立し難いのではとも思います。
本年も諸事よろしくお願いいたします。
by 五十嵐彰(伊皿木蟻化) (2009-01-02 09:05) 

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