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物の深さ [雑]

「考古学を古代社会の層位学とし、文化史的な考究をしたいとは二十数年前木村卓治が云い出した。彼はこんなことを書いた。「考古学者は日常遺物遺跡の取扱いにつとめ其の形を注意するのである。特に数尠い幾人かの優れた学者は、物の深さを正確に現わすことに成功した。しかし、物の深さは其の物の深さによって却って精神の深さよりも浅く見えることがある。つくられた物よりも、つくった精神の方が常に深い」 こういう文学的な表現は、彼が当時ヴァレリーに酔っていた結果である。日は思念を明るくす、思念は夜を明るくす、というこのフランス詩人の言葉を彼は手帖に書きつけていた。当然のことながら、当時の考古学者は誰も木村卓治の云うことなど相手にする者はなかった。考古学が遺物の背後の社会生活とか、階級性の存在とかいうことにまで及ぶのは論外だった。黙殺と冷嘲が学界の返事であった。」(松本清張1954「風雪断碑」『別冊文藝春秋』第43号、1972『松本清張全集』35所収:231.)

「石の骨」と共に、日本で最も有名な「考古小説」の一文である。
以下は、引用文における原文である。

「考古学者は日常遺物遺跡の取扱ひにつとめ其の形を注意するのである。特に数尠ない幾人かの優れた学者は、物の深さを正確に現すことに成功して其の範を吾々に示した。しかし、物の深さは其の物の深さによつて、却つて精神の深さよりも浅く見えることがある。つくられた物よりもつくつた精神の方が常に深いと考へ初めると、さきに述べた「深淵」が至る所に見出されるのだ。此の深淵を定かにさとつて、吾々の遺物研究を始めるべきであらう。」(森本六爾1935「手帖」『考古学』第6巻 第8号、1943『日本考古学研究』所収:2-3.)

ほぼ原文通りといって良いだろう。

あるいは
「今日の主潮から申しますと、考古学は古代文化の層位学であります。吾々が只今専ら研究致して居ります日本考古学も、取扱ふ範囲が日本を主とするところの、やはり古代文化の層位学に他ならぬことでございませう。type fossilsに據りまして、既に失はれた文化の層位を序列し且つ其の文化の編年を確立することの困難さは、かの岩石の層位学に優るとも劣らないのであると私は常々考へて居るのであります。」(森本1935「考古学」『歴史教育講座』第2号、1943『日本考古学研究』所収:8.)

今から73年前にある考古学者によって記された文章が、今から54年前にある小説家によって書き留められていた。
そして今、大きく文脈は異なるものの、同じような言葉を通じてある反響が垣間見えるような気がする。

「ある時代における言葉と物の形式とその諸規則からなる「地層」は、ある一時代の「知」を照らし出す。ドゥルーズによれば、「知」とは、見ることと語ることの組み合わせから生じるものなのである。そしてこの知は、同時に、ある一時代の諸制度、諸条件、諸規則が、何を禁じてしまうかをもあきらかにするだろう。あたかも、光を当て、ものごとを見えるようにすることが、同時に、影をつくりだすことによって「見える部分」と「見えない部分」を分割・配分してしまうように、ある知の形式は、正統と異端、正常と狂気、高貴と卑賤を振り分けることで、言説の管理や身体の監禁をつくりあげてしまう。」(芳川・堀2008「地層 Strates」『ドゥルーズ キーワード89』:145.)

1930年代における言葉と物の形式とその諸規則からなる「地層」。管理された言説。
1950年代における見ることと語ることの組み合わせから生じる「知」。照らし出された「知」。
そして
2008年の「日本考古学」に影を作りだすことによって、「見えない部分」を分割・配分しているものは、何か。

「地層化されたものは、次に生じることになる知の間接的な対象を構成するのではなく、直接に知を構成するのだ。ものの学習と文法の学習。だからこそ地層は考古学的な事柄となる。なぜなら、確かに考古学は、必ずしも過去に関するものではないからだ。現在の考古学もまた存在する。現在であれ過去であれ、可視的なものは、言表可能なものと同じく、認識論の対象であって現象学の対象ではない。」(ドゥルーズ1987(宇野訳)『フーコー』:82.)

「今の吾々は遺物遺跡をして語らしめる前に、吾々自身をかたらなければならなくなつたのである。」(森本1935)
「確かに考古学は必ずしも過去に関するものではないからだ。現在の考古学もまた存在する。」(ドゥルーズ1987)

1931年28才でパリに渡った森本は、1925年パリ生まれパリ育ちのドゥルーズと、何処かの雑踏ですれ違ったかも知れない。


タグ:地層
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アヨアン・イゴカー

>確かに考古学は、必ずしも過去に関するものではないからだ。現在の考古学もまた存在する。現在であれ過去であれ、可視的なものは、言表可能なものと同じく、認識論の対象であって現象学の対象ではない。」(ドゥルーズ1987(宇野訳)『フーコー』:82.)

ご存知かもしれませんが、南伸坊に『ハリガミ考現学』と言う本があります。考現学と言う言葉と、発想が同じように思われます。しかし、現在の物も遺構、遺跡として解釈し始めると、考古学とは何かと言う根本的な疑問がでてきます。
by アヨアン・イゴカー (2008-09-19 00:08) 

五十嵐彰(伊皿木蟻化)

私たちが今生きている「現在」とは、ご存知のように「幅のない線」のようなものです。そこに存在する「もの」は、あらゆる「もの」が様々な度合いの「過去」の集積、折り重なる「過去」の断面、すなわち「地層」だと思います。考古学は、「もの」を通じて、そうした「過去」を考え、「言葉」にする営み、もっと広く言えば、「現在と過去」さらには「言葉と物」の相互関係を考える営みだと思います。
by 五十嵐彰(伊皿木蟻化) (2008-09-19 07:50) 

はしもと

思ったよりもうまくいくことはありますが、「期待したよりは」であって、自分の精神を超えた出来ということは、そういえばありません。それは投げたボールのスピードが落ちるように。うまくいこうといくまいと、出来た物、残された物から読み取れることは少ないわけです。当たり前と言えば当たり前ですが。しかし、その少ない情報をより多く読み取ろうとするなら、こちらからそちらへ、現在から過去へ順々にたどるにかぎります。
「この道を行けばどうなるものか 危ぶむなかれ 危ぶめば道はなし  踏み出せばその一足が道となり その一足が道となる 迷わず行けよ 行けばわかるさ」アントニオ猪木引退の言葉の一部(猪木氏もどこからか引用されているようです)
by はしもと (2008-09-28 21:03) 

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