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発見主義 [総論]

「発見」とは、今まで知らなかったこと、知られていないことを、新たに見つけ出すこと、とされている。そこにあるのは、個人単位であろうと、あるいは人類という壮大なレベルであろうと、私たちの何かしらの知識が増大することに対する全面的な肯定、ポジティブな賛美があるような気がする。
例えば、生物学における新種の発見、天文学における新星の発見などなど。
考古学で言えば、シュリーマンのトロイア、カーターのツタンカーメンから相沢の岩宿に至るまで。

「発見」には、人びとの心を動かす何かがある。考古学という学問は、そうしたプリミティブな何か、「発見」に対する純粋な喜び、興奮に突き動かされて、発展してきたという側面は否めない。
発掘をしていてまず聞かれるのは、「何か見つかりましたか」という質問である。
だから、「発掘された日本列島 新発見考古速報展」なのである。

<もの>の「発見」が、何よりも優先される風潮を「発見主義」という。
私たちは、考古学という学問に色濃く存在する「発見主義」を克服する手立てを考えなければならない。

「発見」は、考古学の目的、最終目標ではない。
「発見」は、考古学の手段、出発点である。

「発見」された資料をもとに、どのような構想を打ち立てたかという点にこそ、評価の基準が置かれなければならない。
ある意味で、<もの>の「発見」は、その場に居合わせた人なら、誰でもできることなのである。
勿論、その人独自の嗅覚、あるいは見抜く力、執念といった「才能」が作用している場合もあろう。しかし、基本は、たまたま、言い換えれば、ある種の「運」としか言いようの無いものなのである。そうしたことに、学問の価値基準が置かれていいはずがない。

実はこんなことは、今からおよそ半世紀も前に(ナント私がこの世に生を受けた直後である)、はっきりと述べられていたことなのである。

「発掘して「物」が出ない場合がある。古墳などでは、見学者が見守る中で内部主体をひらいてみたが、刀子一口だったというようなことがある。そんな時、まわりの人垣から「失敗だな」とつぶやかれた経験をもつ人は、案外多いのではないか。つぶやいた見学者は、軽い気持で物が出ないことを「失敗」という言葉でいい表したのであろうが、発掘担当の研究者までがほんとうに失敗だと思いこんでいる場合も実は稀でないとすれば、一寸始末におけないというものである。
(中略) したがって、「物」が出ないから失敗、沢山出たから大成功というのでは、パチンコでチンヂャラヂャラを願う心理と同じである。」(近藤義郎1962「失敗と成功」『考古学研究』第8巻 第4号:4.)

であるからして、予め肯定的な意味合いが含意されている「発見」という言葉を、より中立的な言葉に、例えば「遭遇」という言葉に置き換えたいと思う。

「遭遇とは、むしろ、それらの能力に限界をつきつけるものとの望まざる出会いであり、記憶には忘却を、知性には無能力をあきらかにする。遭遇の対象とはしたがって、各能力にとっての闖入者であり、それが「しるし[サイン、記号]」となって、それぞれの能力によっていまだ把握されていない存在があることを示すのだ。」市川泰久・堀 千晶2008『ドゥルーズ キーワード89』せりか書房:56.)

自らが希望する、あるいは目的とした調査対象の「発見」のみを目指してひたすら掘り進む「発掘」そして「考古学」ではなく、自らが専門としない、しかし目的とする調査対象に到達するには必ずや「遭遇」せざるを得ない、それは「表土」という名前の近現代包含層かも知れない、そうした「望まざる出会い」をも調査対象から除外しない「遭遇」をキーワードとするような「発掘」、そして「考古学」を。


タグ:発見主義
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アヨアン・イゴカー

>「望まざる出会い」をも調査対象から除外しない「遭遇」をキーワードとするような「発掘」
「遊びとしてのディベート」であれば、自分の側が有利になるように、都合のよい証拠のみを集めて、議論を展開するであろう。それは、「遊び」にはゆるされても、科学や学問に於いては許されない。許されるのは、より真理に近い、説得力のある説明、解釈である。
いくら大量のものが出土しても、論理的、科学的解釈がなされないのであれば、ただの鑑賞対象でしかない。美術品にすぎない。
by アヨアン・イゴカー (2008-09-12 01:07) 

五十嵐彰(伊皿木蟻化)

更に言うならば、多くの「発見した人物」たちは、実は真の「発見者」などではなく、呼ばれて駆けつけてそれらを世に広める際にそれなりの役割を果たしたという「2次発見者」に過ぎません。私の狭い体験の中でも、「市内初の局部磨製石斧」も、「武蔵野台地最大級の有樋尖頭器」も、私が「発見」したわけではなく、真の発見者は、記録に名を残すことも無かった「あの作業員さん」たちなのです。
by 五十嵐彰(伊皿木蟻化) (2008-09-12 20:50) 

はしもと

こう読むとまるで魚釣りのようです。たとえばアジねらいでサバが釣れると「外道(げどう)」とか言いますし、ましてや釣れなくてもいいなんてことはありません。(私は「のんびりできたからいいや」ってほうですが)

発掘調査はやみくもに行われるものではなく、事前の推測があります。ですから、調査で何が出てきたかと同時に、推測との差が問題になります。それによって推測を導き出した学問が厚みを増すのだと思います。ですから思わぬ「遭遇」は実際ありますが、遺跡調査は「発見」というよりは、推測の「確認」なのではないでしょうか。といっても「調査対象とする時代」があるということは、対象外があるわけで、そういうものに対しては推測・確認もへたっくりもないわけですけれども。
by はしもと (2008-09-28 21:38) 

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