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菊地2008『戦争遺跡の発掘 陸軍前橋飛行場』 [全方位書評]

菊地 実2008 『戦争遺跡の発掘 陸軍前橋飛行場』シリーズ「遺跡を学ぶ」047,新泉社.

「調査ではまず、飛行場造成の痕跡がみつかったが、さらにその下から強制買収された田畑がみつかった。(中略) しかし、この田畑面を検出することについては異論がだされた。部分発掘でよいとか、そもそも田畑をくわしく調査する必要があるのか、といった意見である。これらの意見は、調査をとおして地域の歴史を解明していくという基本姿勢を否定するものであり、破壊される遺跡の代償として最低限記録を作成するという、考古学的発掘調査の姿勢自体を放棄するものにほかならなかった。」(28.)

近現代に属する痕跡については、全くの排除、頑なな拒絶(「決して調査対象としてはならない」)か、あるいは全面的な肯定(「先史<遺跡>を対象とした場合と同じ精度で調査されなければならない」)かのどちらかしか道はないのだろうか。
相手(調査対象)の性格、調査自体の諸条件に応じた、もっと柔軟性のある対応がなされるべきだと思うのだが。

「近現代考古学は、<遺跡>の実体性を自明視する日本考古学の基盤主義と本質主義に対して根底から疑問を投げかける。」(五十嵐2007a「<遺跡>問題」:252.)

当然のことながら、本書においても随所に<遺跡>問題が顔を覗かせている。
調査は、「西毛広域幹線道路」という県道を建設するための事前調査として行われた。「陸軍前橋飛行場」外の東側にあたる部分は「引間松葉遺跡」、「陸軍前橋飛行場」内の西側にあたる部分は「棟高辻久保遺跡」と名付けられている(本書:21.)。
それでは、本書の主題でもある「戦争遺跡」である「陸軍前橋飛行場」と行政調査として設定された「引間松葉遺跡」・「棟高辻久保遺跡」との相互関係、両者ともに同じ<遺跡>と呼ばれているが、これらの<遺跡>たちは、いったいどのような関係にあるのだろうか。

「陸軍前橋飛行場」の敷地外にあたる「引間松葉遺跡」あるいは「塚田村東Ⅳ遺跡」から、「対空機関銃座」の痕跡が見つかっている(68・73.)。また「引間松葉遺跡」からは、「九四式・九七式軽迫撃砲弾」が発掘されている。「陸軍前橋飛行場」を中心とする「戦争遺跡」は、いったいどこまで広がるのだろうか。

「これらのことから、縄文時代中期の集落跡は遺跡の北東方向に予想でき、弥生時代後期から古墳時代前期にかけての集落の広がりは遺跡の北西方向に考えられた。遺跡の主体は奈良から平安時代にかけての集落であり、住居跡の総数は226軒に及んだ。」(40.)

引用文において用いられている「遺跡」という語は、「陸軍前橋飛行場」を主題とする「戦争遺跡」の「遺跡」ではなく、「陸軍前橋飛行場中央部の北端近くに位置していた」(25.)「棟高辻久保遺跡」の「遺跡」である。その「遺跡」における「縄文時代中期」の痕跡は北東方向に広がり、「弥生時代後期から古墳時代前期」の痕跡は北西方向に広がり、「奈良から平安時代」の痕跡は調査範囲を中心としているようである。

「素粒子がアトム的存在の実体ではなく「場の状態」であるのと同様に、<遺跡>は自己同一性を有した実質的本体ではなく、あくまでも大地に記された存在の様態なのである。私たちは、そのような特殊な「場の状態」を指して<遺跡>と称しているに過ぎない。(中略) 実体的な<遺跡>概念から諸関係の総体であるリゾーム的な<遺跡>概念へ、視点の変更が必要である。」(五十嵐2007a:249.)

最近、ある実務上の都合から、ある人と<遺跡>問題を巡るやりとりがあった。そこでつくづく痛感させられたのは、現在の埋文行政に携わる人々すなわち「日本考古学」で流通している<遺跡>概念とは、単なる「包蔵地」概念に対して、無理やり考古学的用語である<遺跡>を流用しているに過ぎない、それも無自覚に、そして様々な矛盾が露呈しているにも関わらず、強引に、ということであった。当人たちは、それでもいいのかも知れないが、外から見れば、すなわち「遺跡は教室」と考えている「はじめて考古学を学ぶ若い学生や一般の人びと」(シリーズ「遺跡を学ぶ」刊行にあたって)からすれば、何がなんだか訳が分からない、混乱の極みとしか思えないのではないだろうか。

そう言えば、今を去ること13年前に、「調布飛行場」の跡地の一角を調査したことがあった。その時は、調査エリアから明確な「飛行場」関連の痕跡を見出すことはできず、また自らの意識も低かったせいか、わずかに「関東村」と呼ばれた占領軍家族住宅関連の痕跡を記載するにとどまったのだが。


タグ:戦争遺跡
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アヨアン・イゴカー

><遺跡>は自己同一性を有した実質的本体ではなく、あくまでも大地に記された存在の様態なのである。私たちは、そのような特殊な「場の状態」を指して<遺跡>と称しているに過ぎない。

この発想は興味深いく感じました。組織なども、例えば委員会と言うものは、委員会そのものの実体はなく、委員達の集まりが定期的にあって何かについて話し合ったり、決定したり、方針を出したりして、初めて機能します。
遺跡と呼ばれる状態も、ある土地に於ける、特定の時期に起こった、行われたことの形跡にすぎず、その土地を永遠の時間の物差しの中でみれば、「場の状態」にすぎないことが分かります。
by アヨアン・イゴカー (2008-09-07 13:05) 

五十嵐彰(伊皿木蟻化)

「日本考古学」で、今一番ホットな話題は、<遺跡>問題です! 何せ、日本には、世界でも珍しい「遺跡学」という学問分野があるくらいですから。是非、そうした「場」において、こうした「場の状態」に関する議論を深めていってもらいたいと希望しています。(但し、最近は、ホームページの更新も滞っているようで、少し心配です。)
by 五十嵐彰(伊皿木蟻化) (2008-09-07 15:30) 

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