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躓きの石 [近現代考古学]

考古学的ファロス(男根)とは、何か?
それは、先史である。
男根(男性器)を精神的な価値の根源におくシステムを称して、「男根中心主義(ファロセントリズム」)という。
同じように、先史(プリヒストリー)に考古学という学問の根拠を置く考え方を、「先史中心主義(プリヒストセントリズム)」という。考古学が常に根拠とする「先史」という概念は、単に「文字出現以前」とか「太古」といった時間的根源性、すなわち「古い時代」が理由とされるだけではない。そこにはむしろ「新しいものに対する否定性」すなわち「近現代」ではないという「否定に基づく規定性」が潜んでいる。
女性という性が、単に女であるという規定で成立しているのではなく、男でないものという文化的特性(ジェンダー・アイデンティティ)によって規定されているように。
 
近現代考古学は、単に先史や近世を延長しただけでは、いつの日にか打ち捨てられ省みられなくなることは必定である。研究あるいは報告対象として、仮に新しい時代に属する資料が選択されていたとしても、認識の枠組みとしては、「先史中心主義」と何ら変わる事がないからである。
近現代考古学の真の目標は、従来の考古学を形成している根本的な枠組みである「先史中心主義」をいかに批判していくことができるかにかかっている。
「男尊女卑思想」にも対比しうる「先史尊近現代卑思想」!
古代のロマンに依拠した男根崇拝からいかに脱却できるか。
 
自らの学問的根拠を掘り崩すことによって、自らの存立根拠を確立すること。
であるから、近現代考古学は、考古学という学問に携わる全ての人々にとっての「躓きの石」なのである。
タグ:先史中心
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コメント 4

アヨアン・イゴカー

考古学に興味のあるアヨアン・イゴカーです。

>近現代考古学の真の目標は、従来の考古学を形成している根本的な枠>組みである「先史中心主義」をいかに批判していくことができるかにかか>っている。
>「男尊女卑思想」にも対比しうる「先史尊近現代卑思想」!
>古代のロマンに依拠した男根崇拝からいかに脱却できるか。

と書かれているのですが、それでは、どのようなものがより具体的な考古学の姿なのでしょう?考古学とは何をする学問なのでしょう?「先史中心主義」を批判するのはよいのですが、何が中心になるべきなのでしょう?中心などあるべきではないのでしょうか。

素人の素朴な疑問です。
by アヨアン・イゴカー (2008-03-07 01:12) 

五十嵐彰(伊皿木蟻化)

私の中でもはっきりとしたイメージが形成されているわけではないのですが、言うなれば「私たちを取り巻く様々な<もの>たちの織り成す様相(物質文化)を発掘という手法によって明らかにする営み」ということにでもなるでしょうか。ですから、その<もの>たちは時間や空間に起因する差異はなく、本来は等しく遍く存在しているはずで、その中の何かが特権的に優先され、中心となるべきといったものではないのだと思います。もちろん、私たちが取り組み易いもの、目的とする事象を顕著に反映しているものといった種別はあるにせよ、そうした差異にしても固定した不動なものではなく、私たちの視点の取り方によって、様々に変容するはずです。そして少なくとも、そうした私たちの見方・都合によって、とりあえず対象とすべき<もの>たちが区切られ、選ばれているのだということを、はっきりと認識することが大切だと思います。
by 五十嵐彰(伊皿木蟻化) (2008-03-07 12:55) 

アヨアン・イゴカー

ご回答有難うございました。
確かに、自分自身がどのような立場に立っているかを認識せずに、分析したり解釈したりすることは、非科学的な研究方法だと思います。自分自身を知ることは、同時的には不可能ではああります。歴史的解釈、後世から見て、初めてどのような歴史的意味を持っていたか判然するものなのだとは思います。それでも、自分がどのような立場に立っているかを考えながら解釈することは、必要だと思います。
<もの>たちが存在する、と言う事実は変わりません。今日、たまたま新卒の学生達の面接試験をすることになりましたが、その際に、「名も無い花」「名も無いもの」と言う表現についてどのように考えるかと質問してみました。結論を申し上げれば、私がその質問で言いたかったのは、名も無いという表現は、人間が勝手にそう思っているだけであり、<もの>そのものは厳然と存在している訳であり、知らぬは「名も無い」と言っている人間だけなのであります。たまたま人間がその<もの>を表現する言葉を用意していないに過ぎません。<もの>の存在は事実であり、その事実の方が、「名も無い」と言う言葉で済ませてします人間の一方的な、偏狭な考えを超越していると言うことです。
by アヨアン・イゴカー (2008-03-08 01:17) 

五十嵐彰(伊皿木蟻化)

地面を掘り返すと思いもよらない<もの>が出てくることがあります。「考古学」という学問は、こうした「驚き」をきっかけに誕生し、そうした「驚き」をエネルギーとして発展してきました。しかし<もの>の世界についての知見が深まるにつれて、単に新しい発見だけに興味を求めるのではなく、<もの>世界の在り方を探求する新たな課題が浮上してきたように思われます。最近は、「遺構」と「遺物」という考古学の基礎的な概念について考えています。私たちを取り巻く様々な<もの>たちを、果して「遺構」と「遺物」といった単純な二分法で全てを割り切ることができるのでしょうか。こうした事柄について、次回のセミナーで仲間たちと改めて考えたいと思っています。考古学という営みには、私たちの既存の考えを新たな視角から見直す役割が、そのためにも多くの考えるべき事柄がまだまだ残されているように思います。
by 五十嵐彰(伊皿木蟻化) (2008-03-08 12:20) 

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