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薬袋2002『思考力をみがく 英文精読講義』 [全方位書評]

前回の記事で少し「連歌・俳諧」が出てきたので、それに関連した話題を。このことについては、何回か公の場でも紹介しているので、既に御存知の方もおられると思われますが。
薬袋善郎 2002 『思考力をみがく 英文精読講義』 研究社(東京)

目へ 乳をさす 引越の中」 『武玉川』

『武玉川』とは、正式には『俳諧 武玉川(はいかい・むたまがわ)』という。1750年に初編が刊行された俳諧の付句集である。編者は、慶 紀逸(けい・きいつ:1695-1762)、本職は幕府御用鋳物師である。歌枕として有名な「六つの玉川」とは、山城井出、近江野路、陸奥野田、紀伊高野、摂津三島、武蔵調布の各玉川であり、江戸座俳諧の付句集として、慶は「六玉川」をもじって「武玉川」とした。

「この日の「うた」は再読、三読しても内容がつかめません。点眼薬を使うことを「目薬をさす」といいます。したがって、「目へ乳をさす」というのは、おそらく「目の中へ液体である乳をたらして入れる」ということでしょう。この変わった行為について「はっきりわかった!」という実感をもつためには、英語リーディングのテクニックとしてよく使う「人的要素」「時間的要素」「場所的要素」を考えてみるのがよさそうです。」(26.)

朝日新聞に連載されていた「折々のうた」(大岡 信)に紹介された作品である。大岡氏の解説によれば、「この句は引越騒ぎの一こま。あまり忙しくて、赤ん坊に乳を含ませるひまもなく、つい赤子の目におっぱいを飲ませてしまう母親」とされている。しかし筆者(薬袋(みない)氏)は、「なにか釈然としないものを感じました。それは英文を読んでいて、本当に正しく読めていないときに感じる「違和感」に相通じる感覚です。」(27.)という。

こうした「感覚」、すなわち「何か変だな」と感じるセンスが、学問を行なううえで極めて重要である。
本来は口に含ませるべき乳が、口に隣接する鼻を通り越して、目に入ってしまうというのは、いったいどうしたことなのか。

「この「目」は、いったい誰の「目」なのだろう? 「さす」というのは、いったい誰が「さす」のだろうか? これが「人的要素」です。「さす」というのは、いったいいつ「さす」のだろうか? これが「時間的要素」です。これははっきり書いてあります。すなわち、「引越の最中」です。それでは、どこで「さす」のでしょうか? これが「場所的要素」です。時間が「引越の最中」であるなら、場所も「引越現場で」と考えるのが自然です。すると、この「うた」は「引越の最中に、引越現場で、誰かが誰かの目に乳をたらして入れる」といっていることになります。わけがわかりません。」(27.)

いくら引越で忙しいといっても、母親が赤ん坊の目に間違って母乳をたらしてしまうのは異常である。異常な行為を意図的にするはずがない。すなわち間違って入れてしまったのだというのが、「非意図的行為説」である。

「しかし、「あまり忙しくて、赤ん坊に乳をふくませるひまもなく、つい」という中間命題は、「目へ乳をさす」と「引越の中」をつなぐには、いかにも結合力が弱いような気がするのです。(中略)人間の行動を「有意志(意図的にやる行動)」と「無意志(そのつもりはないのに、結果的にしてしまう行動)」に分けて考えるのは、英語リーディングの重要なテクニックです。その場合、有意志にすると「目的(=何のためにその行動をするのか)」が問題になり、無意志にすると「原因(=なぜその行動をとるような事態が生じるのか)」が問題になります。そこで、私たちは、人間に利益を与える行動(=良い行動)のときは、「目的」を理解しやすいので「有意志」と考え、人間に利益を与えない行動(=無意味な行動、悪い行動)のときは、「目的」が理解しにくいので「無意志」と考える傾向があります。」(28-29.)

これは、「英語リーディング」に限らない人間行動の結果である痕跡を理解する考古学的考え方についても非常に有益な、というより基礎的な見方である。訳の判らない遺物・遺構を目の前にした時に、「これは未成品と思われます」とか「祭祀的な場所です」と説明する傾向に対して。訳の判らない事柄を説明する際に、常に「何のために」(目的)と、「何故」(原因)を考えていく習慣を。

「母親が赤ん坊の目に母乳をたらす」 → 赤ん坊に利益を与えない → 行為者は「無意志」である(非意図的である) → 行為者の意図・目的を説明する必要はない → 原因は過失である → なぜなら引越で忙しいからである。

しかし筆者は、やはり引っ掛かってしまうのである。「いくら引越で忙しいからといって、そんなミスをするかなぁ」、という素朴な疑問に。

「そこで、読み方を変えてみましょう。「有意志」にするのです。「母親が赤ん坊の目に母乳をたらして入れる」行動を母親が意識的に行なった、と仮定してみます。すると、その行動には何か目的があったはずです。その目的は赤ん坊にとって利益でしょうか、不利益でしょうか? 常識的に、母親が自分の赤ん坊に不利益を与える行為を意識的にするとは考えられません。 (中略) さあ、その利益とは何か? これを懸命に考えることになります。」(29.)

「このようにして沈思黙考したすえ思いついたのは、「目に入ったゴミを取ろうとしたのではないか」ということでした。つまり、こういうことです。「引越の最中に、引越現場で、赤ん坊の目にゴミが入って、赤ん坊が泣き出した。母親は、何か清潔なものでそれを取ろうとしたが、とっさのことで、そばに適当なものがない。そこで、確実に無害な液体である母乳を赤ん坊の目にたらして入れて、ゴミを浮かせて取ろうとした。」 (中略) 「目へ乳をさす」は「有意志」で、「目へ乳をさす」と「引越の中」をつなぐ中間命題は「目に入ったゴミを取るため」だったのです。」(30.)

わずか10文字の言葉の中に秘められた何と奥深い世界だろう。「何で」「何故」という原因追求から、「何のために」という目的追求への鮮やかな転換。「何かを読む」とは、まさにこうした論理的な思考に導かれてなされなければならないと一読感心したことを思い起こす。それは、訳の判らない事柄、何に使ったのか皆目検討もつかないものたちを目の前にしたときに、要求される考古学的思考方法でもある。


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高木

最善の方法を考えようともせず、思いつきだけで事を運ぼうとする。だから、所謂、舌の根も乾かぬうちに二回三回と前言(前案)を翻す。労働運動をやっているやっていたと豪語するひとの行いとは思えない。対峙してきた、保守反動体制と同じやり方ではないか。
人にモノを頼むときは、頼む側は頼む相手に敬意を払うものではないか。ヨビツケルなどはもってのほかだ。さらに、権力者に働きかけ強引に事を運ぼうとするなどもってのほかだ。
「こうなったから」の一言で終わりにする。前言で振り回した人達にそれではすまないだろう。良心のかけらすら見当たらない。
他人を巻き込んでおいて、自分に都合の良い「解釈」をするのはどういうわけか。考古学をやっている人がよく使う「解釈の違い」という習慣がそうさせるのか。よどんだ水は腐る。
by 高木 (2007-06-27 20:25) 

五十嵐彰

「それから、イエスは群衆と弟子たちにお話しになった。「律法学者たちやファリサイ派の人々は、モーセの座に着いている。だから、彼らが言うことは、すべて行い、また守りなさい。しかし、彼らの行いは、見倣ってはならない。言うだけで、実行しないからである。彼らは背負いきれない重荷をまとめ、人の肩に載せるが、自分ではそれを動かすために指一本貸そうともしない。」(マタイ書23:1-4.)
by 五十嵐彰 (2007-06-27 21:50) 

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