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#10:20070613 [セミナー]

今回は、考古学の枠組みといったことについて記した今からもう2年も前の記事(「考古学性とは(4)」【2005-10-24】)を中心に、各自が考えていることを自由に論じた。
このことは第2考古学の中心的命題であり、ということは考古学という学問を考える上での核心部分でもある。

「数年前に、ある日本考古学用語事典の書評を行ったとき、原始古代の充実に比較して中世・近世・近代の考古学の分野の比重が極端に低く、これでは日本考古学事典になっていないと率直に述べたことがある。たしかに、日本考古学は原始考古学から開始された伝統があり、縄文・弥生・古墳文化の研究に基礎を置き、そこから遡って旧石器文化や古代・中世以降へと及び、近年では近代の戦跡考古学にまで視野が広がっている。しかし、研究者の専門性や興味・関心の偏りが依然としてあり、原始考古学以外の分野の専門家の養成が緊急の課題となっていると思う。」(峰岸純夫2003「序 -中世考古学への期待」『中世総合資料学の提唱 -中世考古学の現状と課題』新人物往来社:9.)

かように繰り返し疑問が呈され続けているにも関わらず、「依然として」というのは、どういうことだろうか。
状況が変化しない、容易に認識が改まらないのには、何か根本的な要因があるに違いない。
ある場合には、「比重が低い」どころか、関連記載が全くないケースが多発していることは、繰り返し指摘してきたところである。

「ドイツで行われた日本考古学の展覧会『日本考古学 -曙光の時代-』開催に際し、ドイツで出版された日本考古学全体の最先端をまとめた大型概説の日本語版。各時代・各テーマの第一人者、総勢83人が執筆した94篇を収録。過去に日本で実現できなかった日本考古学界の総力を注いだ出版が実現。「旧石器時代」から「縄文」「弥生」「古墳」「飛鳥・奈良」の五つの時代区分ごとに、最初に「概説」を記述し、続いて様々なテーマの論考で構成。・・・豊富な写真と図版で、日本考古学の最先端を上下2冊に網羅。」(『日本の考古学』上・下巻 ドイツ展記念概説、奈良文化財研究所編集、学生社「案内チラシ」2005より)

「網羅」とは、「もらすことなく、すべてに及ぶこと」である。にもかかわらず、こうした構成を提示して、編集担当者たちはこれで本当に「漏れ」はないと思っているのか。「すべてに及んでいる」と心底確信しているのか。「すべてに及んでいる」と思っている記載対象は、実は全体の一部についてのみ該当しているのに過ぎないのではないのか。そしてそのように思い込んでいる人々というのも、実は全体の一部に過ぎないのではないのか。こうした疑念が根強く残る。

「こうして考古学という学問を形成している研究者としての個別目標(たとえばある特定の時代の人々の社会と文化を復元すること)と、遺跡を発掘する調査者としての共通目標(遺跡として認識する土地が各時代によって多様に利用されてきた変遷過程を明らかにすること)の違いが明確に指摘された。すなわち90年代以降に考古学という営為に携わる者たちには、遺跡を発掘する考古学者が体現している研究者および調査者という二面性をはっきりと認識する必要性が生じたのである。」(五十嵐2000a「近現代考古学」『用語解説 現代考古学の方法と理論Ⅱ』 :56.)
「考古学の構造的特質とは、①:時代を限定しないあらゆる物質資料を対象とするという学的理念にも関わらず、②:先史・原始・古代を学的出発点とするという歴史的経緯があり、③:特に先史については特権的地位に位置しており、④:それにも関わらず発掘という行為は常に上層(新しい堆積物)から開始しなければならない、という幾重にも捩れた矛盾に満ちたものである。」(五十嵐2004b「近現代考古学認識論」『時空をこえた対話』:344.)

「古いモノ」の呪縛は、恐ろしい。
「古物学」からの脱却が問われている。
単なる近世延長主義の近現代考古学では、現在の閉塞状況が更に煮詰まるだけである。
「古さ」と「モノ」の双方の呪縛から解き放たれた先に見えるものは、既に従来の「考古学」という枠組みを超えた、新しい何かとしか言いようのないものになっているに違いない。
そのような世界に一体いつになったら到達できるのか予測もつかないが、今現在できることと言えば、そうした目標に向かってただひたすらに歩き続けることだけである。


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五十嵐彰

次回2AS#11(2007-7-11)は、「考古時間論(その後)」と題して行います。参加希望の方は、御連絡下さい。案内と参考資料を送付いたします。
by 五十嵐彰 (2007-06-15 21:30) 

第1層

はじめまして。新しい記事をいつも楽しみに待っています。私は近現代考古学に大変関心がありますが、研究が実践できない状況です。
ところで、今回の記事には
「「古さ」と「モノ」の双方の呪縛から解き放たれた先に見えるものは、既に従来の「考古学」という枠組みを超えた、新しい何かとしか言いようのないものになっているに違いない。そのような世界に一体いつになったら到達できるのか予測もつかないが、今現在できることと言えば、そうした目標に向かってただひたすらに歩き続けることだけである。」
とありますが、伊皿木さんの目指されているものは、考古学の枠を超えた外の世界にあるのでしょうか。それとも、あくまでも考古学の内におさまっている、現状とは違った考古学への転換を意味しているのでしょうか。
by 第1層 (2007-06-15 22:44) 

五十嵐彰

ようこそ、第1層さん。
お尋ねの件、私も悩み深いところです。まずは考古学と呼ばれているもの、呼んでいるものをどのように規定するか、どのように考えるかによって、いくらか対処の仕方が変わってくるように思います。もし今世の中で流通している考古学を本来の考古学とするならば、これから目指すものは考古学とは異なる新たなものになるでしょうし、今の考古学は本来の考古学ではない「古物学」に過ぎないと認識するならば、本来のあるべき真の考古学へと転換すべく努力していくことになるでしょう。そしてそれは単に同じことに対して違ったラベルを貼っているに過ぎないとも思われます。要は、現状とは異なる新たなものを目指すという点では変わりないわけですから。
by 五十嵐彰 (2007-06-16 16:35) 

第1層

 学部1年生のころから、「考古学の存在意義」について考えていました。概説書には、「過去のことを研究し、その成果を現代社会や未来に反映する」ようなニュアンスで記されているものが多いにもかかわらず、私自身はそのような研究事例をほとんど見つけられず、「タテマエ」的なフレーズのように感じていました。
 そのような中、私たちが生きる「近現代社会」がどのような特徴をもつ社会かを検討する上で、それと多種多様な過去の社会や文化等と比較することは、重要なことではないかと思うようになりました。そにような検討を経て、近現代社会が人類史においてとても特殊なものと捉えることができると考えています。
 地理的に、セミナーに参加できないのは残念です。今後とも、どうぞよろしくお願いします。
by 第1層 (2007-06-17 13:27) 

五十嵐彰

私たちが生きている現代社会とは、言うまでもなく資本主義制社会であり、資本主義原理に則って生産される様々な「もの」が満ち溢れている社会です。そうした今こそ、「もの」を作り、使っているつもりになっている私たちが、実は「もの」によって作られ、使われている現実を批判的に捉え返す「考古学的なモノの見方」が重要となりつつあります。しかし今までの考古学は、こうした「考古学的なものの見方」を深く追求することがありませんでした。私たちと「もの」との関係、私たちは「もの」を通して、何を、どのように語るのか、語ってきたのか。「もの」を通して単に過去を語るだけではない、今まで不問に付されてきた「代弁」の在り方を通じて、私たちの現在すなわちものを通じて過去を語ってきた私たち自身が、今後深く鋭く問われていくことになるでしょう。
by 五十嵐彰 (2007-06-17 15:25) 

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