SSブログ

徐1998 [論文時評]

徐 京植(ソ・キョンシク) 1998 「母を辱めるな」『ナショナル・ヒストリーを越えて』
東京大学出版会:35-52.

「宋神道さんは大田(テジヨン)で子守をしていたとき、見知らぬ中年女性に騙され、新義州(シニジユ)で「コウ」という朝鮮人の男に売り飛ばされた。中国の天津までは鉄道で、そこからは「大きな汽船」に乗って、連れてこられたところが武昌だった。1938年、宋さんが16歳のときのことだ。日本軍は、その前年7月7日の盧溝橋事件をきっかけに本格的な中国侵略戦争を開始し、前年末に南京で大強姦と大虐殺を起こしていた。30万人の大兵力を動員した武漢作戦によって、日本軍が武昌を制圧したのがこの年10月27日、宋さんが武昌に到着したのは「寒いときだった」というから、11月か12月だっただろう。武昌への途中でも、到着してからも、宋さんはたくさんの死体を目にしたというが、硝煙と血の匂いが立ちこめる最前線に送り込まれたのだから無理もない。
朝鮮からいっしょに連れられて来た七、八人の女性とともに、宋神道さんが放り込まれた広い建物は、「世界館」という日本軍専用「慰安所」だった。そこが何をするところかも分からず、初潮すらまだだった16歳の宋さんは、しかし、すぐにむごい現実を思い知らされなければならなかった。」(45.)

1938年、宋さんが大田-新義州-天津-武昌と移動させられていたのと同時期に、「支那学術調査団考古学班」は東京-大連-奉天-天津-北京を経て安陽の地で、あるいは東京-上海-南京を経て杭州の地で発掘調査を行なっていた。

「入れ替わり立ち変わりにね。……言うことをきけだとか何とか言って、またいじめるんじゃないかと思って、気持ちが半分おっかなかったの。……とにかく言葉が通じないから、もう大変だったよ。とにかく嫌なら嫌と今ならばしゃべられるけど、俺は無学でしょう。学校も出ていないから。だから字も読めないし、言葉も通じないし、……情けのない軍人は刀抜いて暴れまくったり、これで殺すと言ったり、いろんな軍人がいました。……裸なれだの、へのこなめろだのさ、いろんな軍人がいました。そういうやつらが一杯いました。……入れ替わり立ち替わりね。表のほう蹴っとばしたり、早くやれだの何だのかんだのって、外でせんずりかいてるやつもいるし、様々な人間がいました。
帳場には殴られる。軍人たちには殴られる。本当に殴られ通しだよ。だから気持ちも荒くなるの、今は無理もないの。
朝の7時から夕方の5時まで兵隊時間だから。それから5時から8時までが下士官、士官。それから8時から12時までが将校の時間。……飯食う時間がないんだってば。若いからいい。普通の人間だったらもう死んじまったよ。70人くらいとさせられたこともあるんですよ。……生理があろうが、肺病がたかろうが、マラリアであろうが、兵隊を相手にすることがきまっているの。」(46.)

「狭義」だの「広義」だのという言葉を口にする以前に、人間としてなさなければならないこと、感じなくてはならないこと、そして口にしてはならないことがある。

「こうして宋神道さんの法廷陳述を拾い書きしているだけで、胸が詰まってくる。しかも、ここに語られていることは、宋さんが実際に経験した地獄の何百分の一に過ぎないのである。宋さんはその記憶を封印することによって、ようやく生き延びてくることができた。忘れてしまいたかった、思い出したくなかった、それでも勇気をふるって法廷に立ち、ここまで語ってくれたのである。それを「金ほしさ」に騒ぎだしたのだと罵る者がおり、その野卑な罵声にうなずいている多くの者がいる。これは、いかなる世界であろうか。
憤り、悔しさ、悲しさ、申し訳なさ、それらすべての入り混じった思いに胸が詰まる。16歳の少女に加えられた凄まじい暴虐に。国家意思によって、組織的に、何千、何万という女性たちに対して、こうした暴虐が加えられたことに。それが当たり前だと考えていた植民地支配者の民族差別と性差別に。それ以上に、現在なお、それを当たり前だと考えて疑わない人々がこんなにも多くいることに。「慰安婦」の存在を知識としては知っていながら、こんなにも長い間、具体的なことは何もしてこなかった私自身の罪深さに。」(47-48.)

知らない、知らなかったということがある。
知っていても、「何もしてこなかった」という罪がある。
偽り・虚論・隠蔽・黙認
「批判しないということは、肯定していることを意味している。」

「宋神道さんを思うとき、私は母を思う。母を思うとき、宋神道さんや多くの元「慰安婦」を思う。侮られ、人に捨てられた人。顔を覆って忌み嫌われる人。私たちの病を負い、私たちの悲しみを担った人。この人を、私たちも尊ばなかった。植民地支配と戦後日本の差別社会の中で、民族分断体制と反民主強権政治の下で、つねに踏みつけにされ、軽んじられ、小突きまわされるように生きてきた人。富も地位も権力も知識も持たなかった人だからこそ、まさにその故に、「自分たちは何も悪くない」と、一点の曇りもなく信じていることができたのだ。母たちは、その打たれた傷によって私たちを癒したのである。
いつの間にか母のことなど忘れかけていたこの身勝手な息子が、今度は、無条件に母を抱き締めるべき時なのだ。ことの経緯など問わず、「狭義の強制連行」があったかどうかなどと詮索することなく、ただ無条件に。日本による朝鮮「併合」そのものが「強制」だった。あの時、すべての朝鮮人が大日本帝国の臣民へと「強制連行」されたのだ。それ以上、どんな詮索が必要だろうか。母に向かって投げ付けられる石つぶてをこの身で受けとめながら、「正史」が黙殺し隠蔽してきた母たちの歴史のために、母たちとともに、また母たちに代わって、息子である私が声を発さなければならないのである。」(51.)

今から10年ほども前の文章である。現状を省みるときに、声も出ない。
しかし、それにも関わらず、私たちが「発さなければならない」「声」がある。

 


nice!(0)  コメント(3)  トラックバック(0) 
共通テーマ:学問

nice! 0

コメント 3

shigeyoayumi

抹殺された,あるいは抹殺されようとしている歴史を掘り起こすこと,これは歴史学・考古学の重要な命題です。私も鉱山と朝鮮人労働者との関係ついて熊野地方で調査しています,発表はもう少し先ですが・・・・。
by shigeyoayumi (2007-04-07 12:07) 

五十嵐彰

ようこそ、shigeyoayumiさん。何に目を留めて、何をどのように評価するのかによって、その人の在り方が表出するように思います。ある人から以下の言葉を教えられました。
「苦しみを体験したことのない人は、無邪気である。つらい目にあったことのない人は無遠慮である。心に傷のない人は、鈍感である。自分が鈍感だから、敏感な人がそばにいることに気がつかない。そして無邪気に他人の心の傷に触れる。無遠慮に他人の胸の痛みを刺激する。」(永井隆1992『この子を残して』)
by 五十嵐彰 (2007-04-07 19:15) 

佐藤正人

熊野地方の、どの鉱山のことを、shigeyoayumi さんは、調べていますか。

 紀州鉱山の真実を明らかにする会 佐藤正人
  param@syd.odn.ne.jp
by 佐藤正人 (2007-04-08 10:43) 

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

トラックバック 0