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細川1989『サッカー狂い』 [全方位書評]

細川 周平1989『サッカー狂い -時間・球体・ゴール-』哲学書房
                    【哲学文庫】4として2001年に再刊

中盤におけるダイレクト・パスの交換から、左サイドへ。中央でスルーを1枚入れた後、ゴール前でのワン・ツー・リターン、そしてシュート。
2006年12月14日、雨の横浜。
"カンペキ" な組み立てである。

「路面電車は、分岐点にさしかかるたびに、ポイントを切り替え、信号を送る。サッカーでも球が移動するごとに、新たな可能的状況が意外な輪郭をもってひしめきあい、プレイヤーはその中から戦術的に有効な選択を行なう。ディフェンス側では、なるべく選択させぬようにブロックする。いくつの分岐点があり、いくつの枝がわかれているのかは、全く決定できない。サッカーが、とりわけ、クライフ以降のサッカーが、ツリーではなく、リゾームであるのは、そうした非テリトリー的(つまりアムステルダム的)な連接性による。
ダ・マータの表現を借りれば、「すべてが重要な要因となり、原因と結果の区別がつかない」流動的な場なのだ。因果律から解放され、不意に切断されながらも、流動をやめないマチエール、それは単に無目標にうごめいているのではない。「絶えず移動するひとつの目標への集中力」(カネッティ)をもった「狩猟の群れ」は、その集中力を有機体的なヒエラルキーの構築に向けるのではなく、戦いの流転する状況の中でとりあえず必要なものを手にし -ケージのいう「有用性」- 一方向(ゴール)へ導かれているが、同時にブラウン運動的な、融通無碍なローテーションを停止することもない。」(69-70)

発売当初に一読、衝撃を受け、現場を共にしていた蹴友に貸したのだが、それ以来行方知らず、再び目にすることなく記憶も定かではなくなっていたが、最近再び偶然に遭遇し、本書の通奏低音がD&Gの『ミル・プラトー』であることを確認し、改めて深く頷いたのであった。

「ラグビーにおいて<蹴る>ことは、パントキック、グラバーキックを除けば、試合の流れに切れ目をいれ、分節化することにしか役立たない。そしてその技巧は、足の極めて限られた部分にしか用いない。これに比べ、サッカーのキックは当然のことながら、多様だ。足の裏、つま先、足の甲の外側、内側、中央、くるぶしとその外側、かかと。まっすぐに飛ばすだけのラグビーに対し、<蹴る>動作によって可能なあらゆる種類の変化球がそこで求められる。」(38)

対クラブ・アメリカ戦1点目、ロナウジーニョのヒール・パス。
普通のヒールなら、ブランコの方が余程有効にそして多用していたのは、誰もが認めるだろう。しかし、「足の裏」全体を使ったあの絶妙としか言いようのない「ヒール」を、あそこで繰り出されてしまったら・・・

サッカー・ミュージックから、サッカー漫画、サッカー・ゲーム、サッカー絵画に至るまで、あらゆる領域を網羅する「サッカー文化論」。

「いきあたりばったりの断章の集積こそが、サッカー的な文体、ゲーム的な感性、ボール的な愛着を表現するのに非常に適していることが痛感されるのだ。」(119)

サッカーを愛する、というよりサッカーに狂っている人々に対する深い愛情と共感の眼差し。

「ブラジル・サッカーの文化的厚みは応援団の年齢の幅広さ、女性の多さにも現れている。かなりの老人が夫婦で旗を振っていたり、五十代の堂々たる腰骨の婦人が、五・六人のグループでおそろいの国旗服を着て大声で歌っているのにも出会った。そこに民衆的な想像力がどんなに深く、あでやかに、法外までに一個のボールに託されているかが知れよう。」(172)

日本のオバちゃんたちが、千駄ヶ谷とか飛田給の駅前で、心の底からサポータ・ソングを歌い、それを周りの人々が当たり前のように受けとめている、そんな「文化的厚み」のある光景を、この島国でも何時の日にか目にすることが出来るだろうか?

サッカーの対極に位置する野球というスポーツに対する比較文化論。
管理されたシステム、厳密な分業制、リズムの欠如、3ストライク・3アウト・9回の表裏という54個のアウトをひたすら積み上げる秩序、記録フェティシズム・・・

「サッカーには、野球のような解釈する楽しみはほとんどない。問題とやらを宙吊りにしているスキに、いつのまにかゴールがあり、かえって自分が宙吊りにされているような目もくらむような速度の世界なのだ。決して停止することのないボールよりも速く思考し、とっさにゲーム全体の布置の変化を読むこと、近道のあらゆる可能性を瞬時に計測すること、サッカーに必要なのは、こうした「流れ」の分析力、動くものをスキャンする能力である。そしてこれは言うまでもなく、野球的知性の対極にある。そこでは考えたあとにボールが走り、碁や将棋のように「一手」という単位が一試合で百何回繰り返され、そのたびごとに知性がボールを支配するからだ。考えぬかれた球筋を考えぬかれたバットが打ち返すのだ。無指向=無思考のボールよりも速く思考するには、光速で考えるしかあるまい。一手先、一球先ではなく、一千光年のかなたを飛翔するサッカーボールの急激かつ優雅な軌跡を考えるしかあるまい。それはボールよりもさらに無思考であり続けること、最もラジカルな形で、何も考えないことに等しい。これをサッカーにおける内在的無思考と呼んでおこう。」(35)

野球とサッカーという競技の在り方を通じてなされるスポーツ時間論。「クロノス」としての野球的時間と「アイオン」としてのサッカー的時間。サインに首を振ったり、素振りを繰り返す時間が、ゲームを構成する重要な要素となる「野球時間」に対する、ファウルによって与えた相手ボールをすぐに渡さなかったり、ゴールキックの際のキーパーの緩慢な動作すらが警告対象となる「サッカー時間」の目も眩むような懸隔。

「日本のサッカー雑誌が他のどの国よりも分厚く立派で群を抜いた情報量を持っているのは、ひとえに人々がサッカー自体ではなくサッカー情報に飢えていることを示す。サッカーもある国とサッカーしかない国の差は、あまりに大きい。見たことのない試合のヒーローを祝福し、参加しようにないカップの状況を予測するなんてのは、後進国のメンタリティーそのものではないか。くだらないスター・ストーリーと、したり顔の現地レポートばっかり。それも全て不要とは言わないが、サッカーは文化的な表現として、もっと奥深いとぼくは確信している。」(243)

「サッカーの蹴辞学序説」と題された1986年の『現代思想』掲載論文(14-5:70-86,14-6:254-272)を核にして、「サッカーと同じスピードと同じリズム、同じ生理と同じ組立をもった書物」を目指して作られた、正に<サッカー的>という形容がふさわしい「聖典」。

私も私なりの<サッカー的>な考古学を、目指そう。


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コメント 4

ブルーバード君とフェアレディ君とスカイライン君

ずいぶんと勿体付け激しい本棚と思った。

いきなり、“ニッポン人は農耕民族”という与太話ではじまるのが「聖典」ですか?
(笑)
by ブルーバード君とフェアレディ君とスカイライン君 (2007-11-24 22:00) 

五十嵐彰

もし本当に本書における主張の要点が「ニッポン人は農耕民族」という陳腐な言辞であるならば、おっしゃる通りでしょう。しかし本書が提示しているのは、属領化と脱属領化というもっと普遍的なテーマだと思うのですが。
by 五十嵐彰 (2007-11-25 08:45) 

トヨペット君とダットサン君とスズライト君

ま~、その普遍とやらと「農耕民族」云々の言及が表裏一体の体質だとかは、「スポーツを種に知的な批評を装って自ら輝かせようとする文芸評論家の書き物など」(狐の批評)及びその亜流に我を忘れてしまう思想オタクの人には、なかなか理解でできないでしょうね(呵呵大笑)
by トヨペット君とダットサン君とスズライト君 (2008-12-28 12:31) 

スーパーカブ君とメイト君とバーディー君

>本書が提示しているのは、属領化と脱属領化というもっと普遍的なテーマだと思うのですが。

知的に高尚なことを述べていれば、基本的な事実関係が誤っていてもいいということなのでしょうか?
いわゆる「現代思想」にはさふいふものが多いらしいですね。
(そもそもポストモダンって真っ当な学問なんですか?)
デズモンド・モリスなんか、日本を除け者するつもりなんか少しもないらしいのに、曲解してるみたいだし。
by スーパーカブ君とメイト君とバーディー君 (2011-05-30 13:39) 

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