SSブログ

#4:20061220 [セミナー]

今回は、ゲストスピーカーをお迎えし、また新来会者も交えて、懸案事項を巡り、様々な意見を交すことができた。

「行動が遺したもののうちもっとも一般的なものは、いうまでもなく製作物artifactsとよばれるもので、人が作ったり変形させたりしたものである。これは、一方において道具・武器・装身具・小飾物・小像を、他方において農家・寺院・城・運河・竪坑・墓を含む。すなわち、便宜上、遺物relicsと遺構monumentsの二種にわけられる。前者はもち運びがきき研究用として博物館や研究室にもちこめるが、後者は地面にくっついていたり動かすのには嵩が大きすぎたりしてその位置での研究を必要とする。」(チャイルド1964『考古学の方法』:11)

部屋に持ち込めるか、それとも大き過ぎて動かすのが大変であるかという極めて感覚的な、そして私たちの都合で何となく区分されてきた考古学という学問の「二大区分原理」。
その狭間に落ち込んでしまった様々なものたち。
それらを救い上げるには、どうしたらよいのだろう。
今まで誰も正面から対峙することを憚ってきた基礎中の基礎。
それが、初めて討議の主題として取り上げられた。白熱する3時間にわたる議論。
この場で得られた成果を手にして、それぞれがまた自らの問題に当て嵌めつつ、新たな道を歩んでいくことになる。

「土管や鉄管がそのまま単独で遺構を形成し得る(というより遺構そのものである)という点に関して異論はなかろう。(中略)いくら多量に用いられようとも、遺構を形成するそのあり方が煉瓦のそれとまったく性格を異にしている点は疑いがなく、土管や鉄管は遺構そのものとして捉えることが可能である。」(福田2006「新橋停車場関連の遺物」『汐留遺跡Ⅳ(第1分冊)』:62)

「施設部材・・躯体そのものに不可欠(代替可能か否かではなく)。同一多数の場合が多い。ex.土管、鉄管、煉瓦、瓦 *碍子やレールも?
 施設部品・・必ずしもそれが無くとも、施設最低限の機能は存続可能。ex.建物の照明、線路施設の信号機。」(福田2006「遺構・遺物概念の再吟味」2AS#4配布資料より)

「土管や鉄管はどっちなのですか?」という質問に対して、一つの答えが示された。
「不可欠か不可欠でないか」、これはこれで「異論」があるとかないといった次元を超えて、中々に大変なことである。
さらに先月までは、「施設部品」の代表的な事例として挙げられていた碍子やレールすらも、「施設部材」に変更されているようである。私の部材概念をさらに二区分したうちの「施設部品」たちが、ますますやせ細ってきているように思えるのは、私だけだろうか。

肝心なことは、いったい何のために区分するのか、区分しているのか、あるいは区分してきたのか、ということではないか。

「形態と位置関係という二つの基本的な着眼点をはっきりさせるため、現在の日本考古学では遺物・遺構・遺跡という概念を使う。遺物とは土器・石器のようなもともと可動的な人工物であり、遺構とは住居・窯・古墳のように人間が大地につくりつけたものである。」(横山浩一1978「考古学とはどんな学問か」『日本考古学を学ぶ(1) 日本考古学の基礎』:4)

「基礎」と題された入門書冒頭論文において「定義」とされる章中の文章である。いわば「基礎」中の「基礎」が揺らいでいるわけである。

「数学が矛盾の無い体系であることを、その数学自身を使って証明することはできない。」
ゲーデルの不完全性定理を契機として、数学そのものを対象にする数学の分野「数学基礎論」が成立した。
そう言えば、考古学においてもかつて『考古学基礎論』という名の同人誌が存在したことを思い起こした。それから既に四半世紀が経過している。
「考古学そのものを対象にする考古学の分野」は、果たして成立しているのだろうか。

「思索するものは、専門家であると非専門家であるとを問わず、自分にとっての現代と共に考え、現代が提起する諸問題、それが内に包みこむ諸問題を自己の責任において引き受け、それらの問題に自分の言葉をもって応答しなくてはならない。自分の言葉がまだどれほど貧弱であろうとも、その言葉が当人の責任ある言葉であるかぎりでは、これは大変貴重である。最初に発せられる言葉はつねに貧しく荒削りであるものだ。最初から秩序立って完成している言葉などはどこにもありはしない。荒削りの言葉、それも現代との緊迫した対決のなかで生み出された言葉こそが、思想の生命というべきである。およそ現代的現実に触れもせず、それに無関心な言葉などはうたかたのごときものである。古い伝統ある言葉だけが「古典的」であるのではない。時代の最先端にあって、孤独に厳しく時代と取り組む言葉もまた同じ程度に「古典的」である。思想はつねにアヴァンギャルディスムを内に含むものでなくてはならない。それぞれの言葉が客観性をもちうるか否かは、その後の共同の討議次第である。孤独な個人の言葉であっても、共同の討議の上にのせるに値するものはすべて客観性をもちうる。思索するものは、自分の責任で時代に深く突きささる言葉を作りながら、同時に討議に参加する。」(今村仁司1988「はじめに」『現代思想を読む事典』:6-7.)

「時代に深く突きささる」
「自分の言葉」を求めて。
「自己の責任において」。
次回の「共同討議」(2AS#5)は、1月17日の予定。


nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:学問

nice! 0

コメント 0

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

トラックバック 0