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型式論の存立基盤 [総論]

ある人から、「型式論とかタイポロジーとかもっともらしいことをよく聞くんですが、本当にそんなにすごい理論なんですか」と聞かれた。
そりゃもう、モンテリウス以来の型式組列とか、痕跡器官とか、と説明を始めたが、話しているうちに段々自信がなくなってきた。

「考古学者が一つの「型式」を抽象する際に基礎となる類似した資料群は、どのようにして生み出されるのだろうか。それは、人間の行動の類型性によって生み出されるのである。人間行動の類型性は個人にも集団にも認められるが、考古学で取り上げ得る行動の類型性は、主として集団によって創出され伝承されるところの類型性である。」(横山浩一1985「型式論」『岩波講座日本考古学1研究の方法』p.45)

ここに一つの前提が、ある。
「型式」すなわち類似した資料群は、人間行動の類型性に起因する、ということ。
すなわち、ある人間行動は、ある類似した資料を生み出すのだという想定。

「人間は物を作る際にも集団の行動方式に従うので、一つの集団内では類似した物が多数に作り出される。もちろん、集団の行動方式には、ある許容範囲があり、また、物の製作は作者の個人的な癖、その日の健康状態など、さまざまの偶然的な条件に影響されるので、同一集団の人間が作った物の間にも相違が生じるが、相違はある範囲内にとどまっている。この類似した資料の群を基礎にして考古学者は型式を抽象することができるのである。」(同:46)

同一集団の製作物の相違がある範囲内にとどまる、というのが型式論成立の最大の前提である。
もし、この前提が崩れたらどうなるか。
例えば、ある同一集団が、今私たちが別型式と認識しているAという資料群とBという資料群を同時に製作していたとしたら。
ある同一集団が、勝坂と曽利を作り分けていないという保証をどのようにしたら得られるのだろうか?
まさか、勝坂と曽利では有り得ないだろうが、細分型式といわれるレベルでは、どうだろうか?
それは、「ある範囲内」にどの程度おさまっているのだろうか。それとも、あるレベルからは「ある範囲内」を逸脱していくのだろうか。

あるいは、時代が新しくなった場合、例えば近世などでは、「ある範囲内」はどうなっているのだろうか?
すでに綻びが垣間見えるような気がするのであるが。

「結論から述べれば、筆者は、A・B群両者が「同一生産単位による作り分け」ではなく、むしろ「異なる生産単位による生産」の可能性の方が高いと考えている。例えば、両者の大~小の出土比率が異なることは、形態上はほぼ同じ両者の用途が異なっていたと考えるよりは、両群の製作者の経営意図が異なっていたと考えた方が自然である。異なる法量を指向していることを根拠に、両者の用途が異なっていたと考えることもできるが、その場合でも素焼の灯明皿を用い続けるだけの積極的根拠がみあたらないし、B群の上皿が独自の形態をもっていること(東京大学遺跡調査室1990c)なども上記の推測を強く裏付けるものである。」(長佐古真也1993「『受付き灯明皿』にみる生産と流通 -受皿の型式分類と量的把握を通して-」『東京都埋蔵文化財センター研究論集』第12号:65)

考古学的型式論成立の前提条件
もし同一集団があるものを作るとしたならば、
1)集団内の特定の時期の製作物はある程度類似しており、
2)他集団の同時期の製作物とはある程度異なる。

こうした想定(assumption)は、今までも「現象と本質」あるいは「折衷土器」などとして、ある程度の議論もなされてきたところである。しかし、それらは「系統」という操作によって、あるいは層位的出土事例などによって、どれほど担保されてきたのだろうか? そして、どの範囲まで? どの程度?
そしてこうした議論の背景には、人為物の製作者と使用者を暗黙の内に同一視するという先史的前提が伏在しているように思われる。商品として両者が画然と区別される場合に、先史的型式論はどの程度に有効なのだろうか? それともオールマイティなのか?

欧米では日本ほど型式論議が盛んではないと言われる。その理由は、型式論の前提でもある「製作物-文化集団一対一対応」という「文化史的パラダイム」が民族調査などの知見によって支持されなくなった、という経緯があるのではないか。ものが見れるとか見れないといったレベルではなく。


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コメント 3

奥信濃

興味深く拝見しております。類似性とは何かが問われるのではないでしょうか。観察する側のもつ類似の概念が事物を読み解く際のキーワードではないでしょうか。ブログの内容は前提として、そもそも事物の間に類似の関係がとりむすばなければならないと考えますが、伊皿木さん的にはどうでしょうか。
by 奥信濃 (2006-09-15 19:38) 

五十嵐彰

ようこそ、奥信濃さん。
「類似」とは、常に相対的なものであるということを前提として、私たちが「類似している」としたことの意味が問われているのではないでしょうか。「類似」をキーワードに細分しても、あるいは大別しても、そのことが意味すること、何を意味しているのかを常に考えなければ、それはものさしの目盛りを刻む作業に終始してしまうでしょう。私たちは、そうして刻んだものさしを使って、いったい何を測ろうとしているのでしょうか?
by 五十嵐彰 (2006-09-16 09:00) 

奥信濃

共感します。私は類似という外面を個物と個物を関係づけるものだと考えています。したがって、細かな類似関係の付与が個物にのみ焦点をあて、考古学が扱う個物の背景に人間がいることを等閑視している、あるいはその細分の概念を充分に説明していないと思っています。どうもです。
by 奥信濃 (2006-09-16 18:00) 

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