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大量埋葬地論(続) [近現代考古学]

大量埋葬地を調査対象とする際には、様々な要素が複合的に絡み合っており、そのことが大量埋葬地における現在の性格を規定している。

1919年4月15日:朝鮮・堤岩里
1923年9月:日本・東京近辺
1932年9月16日:朝鮮・平頂山
1937年12月13日:中国・南京
1944年6月10日:フランス・オラドゥール
1945年8月:中国・海南島三亜市郊外
1968年3月16日:ベトナム・ソンミ
2004年4月11日:イラク・ファルージャ

様々な虐殺(massacre)無差別大量殺戮のリストである。
原因も状況も様々である。
ここでは、3つの要素を取り上げて通覧してみよう。
1:加害者(虐殺には虐殺した人間たち(集団)がいる)
2:被害者(虐殺には虐殺された人間たち(集団)がいる)
3:現場(虐殺された被害者は虐殺された場所に埋められた)

日本人が朝鮮で朝鮮人を虐殺した(提岩里1919、平頂山1932)。
日本人が中国で中国人を虐殺した(南京1937)。
日本人が日本で朝鮮人(中国人・日本人)を虐殺した(東京1923)。
日本人が中国で朝鮮人を虐殺した(海南島1945)。
ドイツ人がフランスでフランス人を虐殺した(オラドゥール1944)。
アメリカ人がベトナムでベトナム人を虐殺した(ソンミ1968)。
アメリカ人がイラクでイラク人を虐殺した(ファルージャ2004)。

多くの無差別大量殺戮事件において、被害者と虐殺現場(大量埋葬地)のナショナリティは一致している。その国でその国の人たちが殺戮されている。
この8つの虐殺事件において、不一致の事例は2例のみである。
東京1923および海南島1945。

詳細に見れば、更に複雑さは増す。
オラドゥール1944においても、加害者であるナチス親衛隊隊員には、戦前まではフランス領であった(そして戦後も)多くのアルザス・ロレーヌ地方出身者が含まれていた。

事件の被害者と現場所在地と調査者のナショナリティが、それぞれ異なる場合には、調査を具体的に進める過程において、いっそう多くの困難が発生する。

「人気のない街路。二度と電車の通らない線路。崩壊した家々。ガラスのない窓辺に置かれた黒焦げのミシン。処刑が行われた六つの納屋はすぐ分かる。煉瓦の壁に無数の弾痕がある。古い門扉が錆びた蝶番にぶらさがり、木材部分は銃撃によって穴だらけだ。七人の男たちが這い出したローディ納屋の奥の裂け目はまだよく見える。最も恐ろしいのは教会だ。屋根は焼け落ちて、空に向かって大きく開いている。祭壇の裏の高い窓の、金属の桟が外側に曲がっている。マダム・ルファンシュが脱出したときのなごりだ。原形をとどめぬほどに押しつぶされ焼け焦げ錆びた乳母車が、祭壇の近くにころがっている。四十年前の阿鼻叫喚を聞くのに大きな想像力は必要ない。ここには冷気がただよっている。」(ロビン・マックネス(宮下嶺夫訳)1998『オラドゥール 大虐殺の謎』小学館文庫:p.261)


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竹内啓二

陵墓地形図は古墳を知る唯一のてがかりですが、仁徳陵の場合、原図と完全に比例が質せる図版は未だにありません。理不尽然です。当HP「よみがえる・・・」はコピー防止のためdpi150で粗いですが、同400で原図原寸大のデジタル処理の結果として、遺跡の全体像を考えています。今の学際は科学的と称して非科学的アプローチをする学問に思えます。ご活躍を祈る。
by 竹内啓二 (2006-06-09 06:51) 

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