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考古学とは(1) [総論]

<遺跡>とは何かということについて考えるということは、考古学とは何かということについて考えるということである。なぜなら、以下のような言説も見られるからである。

「「遺構」や「遺物」は、「遺跡」における本来的な位置付けが明らかにされなければ、資料的価値はない、あるいは、極めて少ないといわざるをえない。その意味から、考古学の資料は、「遺構」と「遺物」の組み合わせからなる「遺跡」そのものにほかならないといえよう。したがって、考古学とは遺跡学であるということもできる。」(白石太一郎2004「考古学への招待」『考古学と歴史』放送大学教材:p.13)

<遺跡>概念が揺れ動き、定まっていないのに、「考古学とは遺跡学である」というのである。これでは、考古学も動揺は免れ得ない。

考古学とは、何なのか?
幾つかのテクストを参照しながら、いまさらながら基本的な事項を検討してみよう。
考古学の定義、考古学に関する言辞において、共通に言及されている要素、欠かせない要素は何であり、ある論者は触れても異なる論者は触れ得ない要素は何なのか?

 「考古資料とは、「考古学的研究」という営みの「対象」と、まずもってみなすことができる。だとすると、考古資料について論ずるために、考古資料の「範囲」を確定するためには、まず、「考古学(的研究)」とは何か、について、確定しなければならない。しかし、このことは、以下に論ずるように、単純な作業ではない。」(溝口孝司2004「物質文化資料としての考古資料」『歴史学研究』第795号:p.2)

はっきり言っておこう。
今ある考古学、日本でなされている考古学は、先史的な考古学以外の何物でもないということ、すなわち近現代を排除しなければ成立しない考古学なのだ。
自らの学的規定「人類の過去」を定立させつつ、実践的にはその基盤を掘り崩さなければ成立し得ないという自己矛盾。
右手には「濱田定義」を持ち、左手には「文化庁指針」を持つ、引き裂かれた日本考古学。そして自らのその矛盾には、あえて深く立ち入らない自己欺瞞。

今日、ある場に残された一つの穴ぼこを掘り、堆積を観察し、記録しながら、その営みにまつわる様々な葛藤、矛盾、混乱を引き受けながら考える。
考え続ける先に、何があるのか、判らない。
しかし、考え続けるしか方法がない。
同じようなことを考えているのは、決して一人だけではないだろう。

ただ掘るだけではない。壊れるから掘るだけではないのだ。
掘るだけなら掘らんでもいいのだ。
「この国の人々のすべてから、古い考古学の観念を叩き出してしまおうではないか。」(藤森栄一1974「掘るだけなら掘らんでもいい話」p.20)

「樹木は動詞「である」を押し付けるが、リゾームは接続詞「と・・・と・・・と・・・」を生地としている。この接続詞には動詞「である」をゆさぶり根こぎにするのに十分な力がある。」(D&G1994「千のプラトー」p.38)

近現代考古学そして<遺跡>問題には、「この国の人々のすべてから、古い考古学の観念を叩き出してしま」う「のに十分な力がある。」


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