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和田2016「続・多摩の敷石住居」 [論文時評]

和田 哲 2016 「続・多摩の敷石住居」『多摩考古』第46号、多摩考古学研究会:18-34.

「続・緑川東問題」である。 

「石棒の性格や祭祀のあり方に関する議論は多様で、長田友也氏は四本の石棒がSV1で使用された証拠はないとする。厳密にはその通りであろうが、通常の敷石住居とは考え難い特殊な遺構に埋置された石棒は、第一義的に本遺構と密接な関係を有すると捉えるべきと筆者は判断している。」(22.)

本論の発行日が2016年5月27日、五十嵐2016c「緑川東問題」が5月29日なので、当然のことながら両者共にお互いに言及することは叶わなかった。

筆者は、緑川東の本報告作成に関わられた研究者たちの中でも、微妙に立ち位置が異なるように思われる。
それは、SV1について「極めて祭祀性の強い敷石遺構」、「通常の敷石住居とは考え難い特殊な遺構」とその特殊性を繰り返し強調されているからである。
さらに和田氏はかねてより、SV1の主軸が他の敷石住居とは異なり、向郷・緑川東からは冬至の日没が富士山頂に沈むことも指摘されている(和田2004など)。

ならば素直に考えて、SV1自体がある方向性を考慮して設計・構築され、その方向性に応じて4本の石棒が並置された(あるいはまず4本の石棒が並置されてから、SV1自体が構築されたという可能性すら有り得る)という解釈になるように思われるのだが、実際はそうはならずに他の研究者の志向に惑わされてか「敷石が撤去され」(和田2015)という廃絶儀礼説に帰着してしまうのが、理解し難い点である。

「それでは「わざわざ敷石を剝がし」て石棒を並置した敷石遺構SV1は、石棒が並置される以前はいったいどのような性格の遺構だったのだろうか。」(五十嵐2016c「緑川東問題」:10.)

冒頭引用の第1文と第2文の相互関係において、「厳密にはその通り」と長田説を部分的に肯定しつつも、4本の石棒とSV1について「密接な関係」というやや曖昧な表現で自らの主張が述べられることになる。
この場合の「厳密」とはあくまでも石棒「使用」が「樹立」という前提に立った上での「厳密」である。
もし石棒の「使用」が「樹立」と共に「並置」という状態も有り得るならば、SV1と4本の大形石棒は「密接な関係」どころか正に「使用された証拠」そのものということになりはしないか。

混乱に拍車をかけているのが、用語の選択である。

「出土状況は石棒の置かれたところは、敷石が撤去され、地面をならして安置されたと考えられる。石棒は敷石上面から10cmほど下にあり、埋置したと見る向きもあるが、埋めたにしては浅すぎると考えられる。」(和田2015「緑川東遺跡の敷石遺構と石棒をめぐって」『多摩考古』第45号:25.)
「…通常の敷石住居とは考え難い特殊な遺構に埋置された石棒は、…」(和田2016:22.)

去年は「安置」派だったのが、今年は「埋置したと見る向き」に転向したということなのだろうか。
「安置」(和田2014a:173. 和田2015:25.)、「配置」(和田2014b:37.)、「納置」(和田2014c「緑川東遺跡の敷石遺構と石棒」(配布資料))、「埋納」(和田2014a:173.)、そして「埋置」あるいは「並置」それぞれの違い、それらを使い分ける意味を明らかにしておく必要があるように思われる。

「近年はマイケル・シファーの方法論による形成過程研究に着目した、ライフヒストリーの分析手法が、住居跡や石棒などの遺物でも盛んである。山本典幸氏は東京都武蔵台東遺跡やTN72遺跡での研究で一端を披瀝していて、今後の動向を注視したい。」(20-21.)

いくら形成過程研究やライフヒストリー研究に着目しても、解釈を導き出す過程に思い込みがあったり、可能性として提示された事柄がいつの間にか確定した事柄のように変容したり、他のありうべき仮説を無視しているようでは、説得力に欠けると言わざるを得ない。

私も、「今後の動向を注視したい。」


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