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禰津1935「原始日本の経済と社会」 [論文時評]

禰津 正志 1935 「原始日本の経済と社会」『歴史学研究』第4巻 第4号、第5号:19-32,49-62.

「確かに爾来、無数の資料・報告書が刊行された、-とくに朝鮮・満洲・蒙古の発掘を目的とする東亜考古学会の報告書は尨大にして豪華を極め、世界有数のものであらうー、資料の集成や写真集も現はれる、雑誌は氾濫する、土器の分類は混線する、しかも無方法的な資料追随主義の趨勢に行詰りを感じた一二の学者は『原始農業』を呼号する、等々が日本考古学界の現状である。
従つてわが国資本主義の勃興期たる明治三十年に於て早くも、正しい社会学的テエゼを提出した故坪井博士の功績は、永久に忘れられてしまつた。」(19-20.)

「故坪井博士の社会学的テエゼ」とは、冒頭に掲げられた以下の一文を指す。
「或る古墳石槨内から曲玉が発見されたと仕ませうに、……玉を身に着ける人と玉を細工する人との間に社会上階級の区別の有つた事が知られる。
 -故坪井正五郎『考古学の真価』考古学会雑誌 第一編 第八號 明治三十年八月-」(19.)

「日本の考古学者が大陸の研究に専心するを見て、坊間、或いは学問の侵略主義と謗り、時にはファッショの手先なりと疾呼する者がある。」(八幡一郎1935:277.)

かように貴重な金字塔を打ち立てた文章に相当するのは、本論の以下の一文ぐらいしか思い当たらない。
「学問としての斯かる正統な任務を忘れた考古学が、今日他の凡ゆる市民的科学と同じく、 -元来考古学の発達は十九世紀に於ける西欧資本主義、ならびにその海外に於ける発展・外交政策・戦争と歩をともにした- それ自体すでに行詰つてをり、それと同時に、外見的に華やかな植民地・半植民地の発掘探検に力を注ぎ始めた意味も、此の市民的社会が独占経済の段階に入つた構造的本質によつて説明せられるであらう。」(20-21.)

ただ八幡1935の『考古学』6-6が7月発行、本論の禰津1935『歴史学研究』4-4が8月発行という点が引っ掛かっているのだが。

禰津は、植民地台湾で育った。
「ふつう日本人は台湾人の子供と遊ばないが、私はよく遊んだ。この幼年時代に見聞した日本人の台湾人虐待、台湾人の反抗などは『日本現代史』「第十章 台湾にあがる独立の烽火」に記しておいた。私の台湾人にたいする親愛の情は幼年期からであった。」(ねず まさし1978「「原始日本の経済と社会」の巻」『歴史評論』第339号:64.)

この辺りは、東洋史研究者の旗田 巍氏の回想と共通したものがある。

「「原始日本の経済と社会」は『歴史学研究』(四の四、五)にのせた。敗戦後、岩波書店の『日本社会の史的究明』に再録され、また近くは校倉書房の『日本原始共産制社会と国家の形成』(175頁以下)に再録されることとなる。さらに、三笠書房から、この論文に天皇国家を加えた上、戦時中ひそかに研究したエジプトとメソポタミアの階級社会の出現状況を加え、『原始社会』という単行本(絶版)にして刊行する。浜田教授ら教室の人々は、この論文に沈黙していた。存在を無視したわけである。ひとり弥生式土器と農業の研究家で『考古学』の主幹森本六爾が末永氏や東方文化研究所の水野清一、教室の助手小林行雄氏らに私を罵って歩いた(末永氏と水野教授談)。反応として注目すべきものである。」(ねず1978:70-71.)

「無方法的な資料追随主義の趨勢に行詰りを感じた一二の学者」の「反応として注目すべきものである。」

「自分でいうのは、おかしいが、執念深い人間である。学生時代の発願を、環境が許されると、必ずやりだす、そして大部分を実現した。これらの底に一貫して流れる思想は、厨川白村から学んだ自由主義、共和思想である。フランスの人民戦線は、大革命以来の民主主義と社会主義がミックスしたものとして今でも私を強くとらえている。「原始日本」は、民主主義日本の精神的建設の準備作業といえる。以上の私の仕事の底にはこの目標が不動の信念となっている。」(同:73.)

厨川白村(くりやがわ はくそん:1880-1923、英文学者・評論家)、私も読んでみよう。


タグ:学史 植民地
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