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泉・上原編2009『考古学』 [全方位書評]

泉 拓良・上原 真人編 2009 『考古学 -その方法と現状-』 放送大学教材 1553607-0911(テレビ)、放送大学教育振興会.

 1. 考古学とは何か(泉 拓良)
 2. 発掘調査の歴史と実施(泉 拓良)
 3. 考古学があつかう年代(上原 真人)
 4. 年代の理化学的測定法(清水 芳裕)
 5. 層位学と年代(阿子島 香)
 6. 型式学と年代(岡村 秀典)
 7. セリエーションとは何か(上原 真人)
 8. 遺物の機能をさぐる(上原 真人)
 9. 使用痕分析と実験考古学(阿子島 香)
10. 民具と考古学(上原 真人)
11. 考古学と分布(泉 拓良)
12. 産地同定と流通(清水 芳裕)
13. 東アジア古代の青銅器分布(岡村 秀典)
14. 遺跡内での遺物分布(阿子島 香)
15. 考古学の多様性(泉 拓良、阿子島 香、溝口 孝司、岡村 秀典、上原 真人)

日本における考古学的な方法に関する最新の現状を示している、ということは言えよう。

「現代においては、平安時代や中世は勿論のこと、江戸の考古学や近代化遺産の考古学、産業革命考古学、第二次世界大戦の戦跡考古学等という、より新しい時代の考古学分野が登場してきている。
この理由を考えるに、考古学と歴史学との有効性の範囲は相対的であり、時代や分野ごとに、それぞれの資料数の多い少ないによって、考古学と歴史学の有効性が変化すると思われる。また、歴史学における資料の増加する速度と、考古学の資料の増加する速さには違いがあり、特にその違いは文献資料の少ない、初期の歴史時代に顕著である[図1-5]。
年々、考古学的研究の有効性が新しい時代にまで認められる様になってきた理由は、上述の考古学と歴史学における資料数の増加の特性と関連すると考える。考古学資料は、濱田の時代以降、発掘調査、工事に伴う発掘調査の急増から、急激に増加したが、文献資料はさほど増加しなかった。また、いったん考古学の有効性が証明されると、自治体による指導が徹底し、より新しい時代の遺跡が発掘され、益々新しい時代の資料が増加するという循環が起こった。その為、考古学の有効な範囲が急激に新しい時代にまで及んできたと解釈できる。」(泉 拓良「考古学とは何か」:12-14.)

ということで、「図1-5 考古資料の増加と有効な時代の推移」として横軸に年代、縦軸に資料数をとった2つのグラフが示される。「大正時代」とされる左のグラフでは緩やかな増加を示す「考古資料」の右上がり曲線が、急激に増加を示す「文献資料」に横軸およそ5/6のところで追い抜かされ、考古資料が文献資料の資料数を上回っていた横軸5/6のエリアがトーンで「考古資料の有効な時代」であることが示される。このグラフと対比して右側には「現在」と題される同様のグラフが示され、考古資料の増加曲線が更に上向きに修正され、それに応じて文献資料の増加曲線との交点もさらに上方かつ右方向に移動し、必然的にトーンで示される「考古資料の有効な時代」範囲も新しい年代方向へ拡張される様が示される。

考古学という学問の有効性(有効範囲)とは、単に文献資料との対比に基づく数量による優越関係のみで決まってしまうのだろうか?
文献資料が考古資料を上回っているとされる時代においてすら、あらゆる領域においてあらゆる地域でそうであるとは限らないだろう。
そして文献資料と考古資料の資料数を比較するというが、両者は単純な数量として比べることが可能なのだろうか? 例えば古文書一綴りと石器1点を比較することができるのだろうか?
あるいは考古学が対象とする<もの>に基づいた「語り」と文献である文字による「語り」を、単に両者の数量のみで比較することが可能なのだろうか?
なにより数が上回れば、それだけで有効性が担保されると考える余りにも功利主義的思考法についていけない。一つの意見としてはありうるのだろうけど。

そしてなにより、考古学という学問の存在意義を考える際に、常に文献資料との対比でもって位置づける抜きがたい考え方。

「「時代が下るに従い考古資料のもつ歴史叙述への参加の度合いは相対的に減少する」という「時間遡及相関価値付与説」をいかに転倒させていくのかという課題である。この難問を潜り抜けない限り、文化庁通達に象徴される「先史中心主義」(先史に安住する無自覚な実証主義)は揺るぎもせず、あらゆる対応はすべてその枠内での作業に止まる。先史の特権化は、古物学あるいは好古学の復権でしかない。」(五十嵐2005「書評 方法としての考古学」『季刊 考古学』第92号:102.)

現在の私たちとは異なる他者、それも過去における他者が残した痕跡を通じて、もはや存在しない過ぎ去った人びとの営みを明らかにする。他者を明らかにすること、それは自らを明らかにすることと表裏一体、そのことそのものである。どのような他者を明らかにしようとしているのか。どのような他者を眼中には入れず、排除しているのか。そのことによって、自らの意思とは関わりなく必然的に自己認識が示されることになる。

考古学とは、主に地中に残された痕跡を通じて過ぎ去った他者の有り様、今は存在しない私たちとは異なる他者を捜し求める営みであり、そのことを通じて自らの有り様を確かめ省みる行為である。そこに文字資料との相互関係による自己規定は、存在しない。


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