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グレーバー2006『アナーキスト人類学のための断章』 [全方位書評]

デヴィッド・グレーバー (高祖 岩三郎 訳) 2006 『アナーキスト人類学のための断章』以文社(David Graeber 2004 Fragments of an Anarchist Anthropology. Univ. of Chicago Press.)

「それはその核(コア)においてアナーキストだったが、80年代に私をがっかりさせた、終わりなきセクト主義的喧騒には反対する趨勢だった。それは全面的に「直接行動」の原理に基づきながら、いわゆる -新しい形式の社会性を「現在」において創出することで、すでに自由であるかのように振舞うことを目指す- 「予示的政治(prefigurative politics)」に邁進するアナーキズムだった。それがもっとも重視するのは、アナーキストであろうと誰であろうと、一緒に並んで世界中の暴力的制度と闘おうとする人びととの関係において、「聞くこと」「理解すること」「道理(reasonableness)」を開発することであった。それは、それを望む同盟者との関係においてさえ、相手に圧力をかけ、協定を結び、制度的な統合を計ることを含む、あらゆる「暴力的制度化」を絶対的に拒絶しようとする挑戦であった。」(19)

書店で平積みになっている本書を手にした時、「とうとう、こんな本が現れたか」とある種の感慨に慄いたことであった。

「人類学もまた、私にとっては重要なものである。実際グローバル・ジャスティス・ムーヴメント(Global Justice Movement)に参加することによって初めて、私はそれが人間の可能性の宝庫として意義があることを、はっきり理解するようになった。それが何よりも疑問視するのは、学問世界のいくつかの虚偽である。われわれが世界にとって重要な何事かを知っていることは確かである。だがわれわれの思考と議論の過程、われわれが知を使って実践すること -それらは特権主義的、セクト主義的習慣にどっぷり浸かっている。」(21)

「特権主義的、セクト主義的習慣」とは、どのようなことか。

「そもそも大学院においてわれわれが学ばせられる、自惚れた特権主義的言語に抜本的な欠陥がある。あらゆる異なった立場に対して、その真の対立点を理解しようとする代わりに、それらを憎々しげな戯画に還元し邪険に捨て去ろうとする。これは学ぶことというより、ある種の政治である。もし知的生活が、ある次元における、真実への共通の探求ならば、異なった立場に立つ者の仕事を可能な限り親切に読み込み、それでも最後に問題の在り処を指摘する -そんな姿勢が必須ではないだろうか?」(22)

日本において「アナーキスト」なる言葉を目にした瞬間に、多くの人びとがなす生理的反応がこうしたものであろう。

「私がこの著作で試みたこと、この著作に託した望みは、人に指令せず、人を罵らない知的実践の形式の可能性である。私が欲しているのは、新しいラディカルな政治的実践から立ち上がる新しい政治的思想を正当に認知しうるような知的実践の形式、われわれ自身が、よりよい世界を見たいという欲望を共有するさまざまな人びととの(理想的には)贈与関係に捕われた解釈者以上のものではない、という事実を認知する謙虚さを持った知的実践の形式である。」(24)

以上は、全て「まだ見ぬ日本の読者へ」と題された序文からの引用である。詳細については、是非本書を手にとって一読されたい。本文からは一箇所だけ引用しておこう。

「だからアナーキズムが必要としているのは、高踏理論(ハイ・セオリー)でなく、むしろ「低理論」(ロー・セオリー)とでも呼びたいものなのである。それは変革のための企画(transformative project)から出現する現実的で、直接的な諸問題と取り組むための方法論である。社会科学本流は、ここではあまり役に立たない。なぜなら、そこでは上記の問題は通常いわゆる「政策問題(policy issues)」に分類されてしまうが、それこそ自覚的なアナーキストなら誰もが関与しようとしない類のものなのである。(中略) 
人びとが自由に自分たちの生活を統治しうる世界を実現する助けになろうとしている者たちにとって、一体どのような社会理論が有効なのか? そしてそれこそがこの小著の主題となっていく。まずそのような理論の出発点となる前提がある。たくさんはない。おそらく二つだけだ。
第一にその理論は、ブラジルの民謡が歌うように「別の世界は可能なのだ(another world is possible!)」という想定から出発する。国家、資本主義、人種差別、男性支配といった制度は、不可避のものではないということ、それらが存在していない世界を形成することは可能であるということ、そのような世界の方がわれわれにとって良いのだ、ということ。」(44-46)

そうなのだ。今は、万古不易に思える第1考古学全盛の日本考古学についても、そうではない「別の世界は可能なのだ!」。そしてそのための方策として「類縁グループ」(affinity group)という在り方が紹介されている。
1994年メキシコはチアパスにおけるサパティスタ蜂起は、さまざまな類縁グループを発生させ、それらの地域連合からさらに国際的な網状組織(People's Global Action=PGA)へと発展せられていった。DAN(Direct Action Network)、IWW(Industrial Workers of the World=ウォブリーズ)、UFPJ(United For Peace and Justice)、NYMAA(New York Metro Alliance of Anarchists)、FAI(Federacion Anarquista Iberica)、MAUSS(Mouvement anti-utilitariste dans les sciences sociales)などなど、そしてこうした流れに「ACT考古学」も、そして小さな小さな「第2考古学セミナー(2AS)」も連なるだろう。

「そしてそれはまた別の次元における、いまだ見ぬ「類縁グループ」の形成を促すだろう。かくして、われわれの目前には、無数の類縁グループのグローバルな重なり合い、漸進的網状組織化(ネットワーク)という未来への方向性が、可視化されるようになってきている。」(高祖2006「グレーバー現象について 訳者あとがきにかえて」)


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