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「東京の戦争遺跡」 [近現代考古学]

第3回 国際学術シンポジウム
日時:2006年10月7日・8日・9日
会場:NHK青山荘(東京都港区南青山)
主催:「戦争・植民地記憶」研究プロジェクト
メインテーマ:「東京の戦争遺跡」
サブテーマ:「侵略・差別と抵抗の教育」
資料:『東アジア教育文化学会年報』第3号ほか配布資料

「東京には、日本による侵略戦争・植民地主義について、歴史の解明と教育に役立つ戦争遺跡が数多くあります。しかし、戦争遺跡の研究と教育が行われる一方で、それらを利用して戦争を肯定し、推進する動きも活発化しています。戦争と植民地主義、そして差別に抵抗するため、いま必要とされる戦争遺跡の研究と教育のあり方とは何か。それを探るため、靖国神社をはじめとする重要な戦争遺跡に焦点を当て、韓国・中国・日本から参加者を得て対話を行っていきます。」(「案内チラシ」より)

1:東アジアの戦争遺跡から
 石 純姫「北海道近代における朝鮮人の定住化とアイヌ民族」
 柳 教烈「東アジアの戦争遺跡 -日本人遺骨問題から-」
 王 希亮「中国東北の戦争遺跡」
 許 寿童「「間東事件」における教育の被害」
2:東京の戦争遺跡 -戦争への利用と抵抗の動き-
 黒尾和久「東京の戦争遺跡」
 辻子 実「侵略神社の形成と展開から」
 藤田直彦「東京の戦争遺跡と教育」
 君塚仁彦「東京の戦争博物館と「聖徳」「聖蹟」空間の配置 -戦争記憶・天皇記憶の管理と再編成に関する試論-」
3:靖国神社と戦争・植民地主義
 王 智新「中国から見た靖国神社 -20世紀初頭の視線-」
 又吉盛清「靖国神社と戦争・植民地主義 -沖縄から問う-」
 朴 普雨「韓国から見た靖国問題」
 高橋哲哉「靖国神社と戦争・植民地主義」
4:侵略・差別と抵抗の教育
 川元祥一「開港慰安婦 -日本近代の闇-」
 大森直樹「「満洲国」下の教育史」
 渡辺雅之「ソウル西大門刑務所歴史館から38度線近くの臨津閣までを走った意味」
 板橋正枝「八広小学校での人権教育の課題」
 岩田明夫「東京墨田の人権教育は継承されるか」

問題点は、多岐にわたる。全てを聴講できたわけでもない。それでも、様々なことを学ぶことができた。「立場は異なれど、方向性を共有できることが大切」との意見にも共感した。
最終日、発表者の生き様がそのまま反映された発表には、多くのことを考えさせられた。考古学に関連する様々な研究発表を聞いてきたが、こうした「力ある」発表は、経験したことが無かった。改めて思った。この世には、2種類の研究発表がある。「力のある発表」と「力のない発表」と。

東京都調布市に所在する「野川遺跡」は、別名というか本来は、「ICU.Loc.28C遺跡」として登録されていた。1956年以来、130ヘクタールに及ぶ大学敷地内に関する分布調査がなされ、1964年に28番目の番号が与えられ、1970年に「野川遺跡」として調査・報告されたわけである。しかしこの「ICU遺跡群」は、あくまでも「先史遺跡」のみを対象としており、そこには「先史以降の諸遺跡」は当然のことながら視野に入っていない。
現在問題とされているのは、こうした「ICU遺跡群」的視野と「中島飛行機製作所三鷹研究所」との関係性についてである。

確かに「東京の戦争遺跡」という言葉は、「問題含み」である。問題を感じられないということが問題なのである。では、どうすればよいのか。「東京の戦跡」なのか、「東京の戦争痕跡」なのか。
私の立場としては、19世紀後半以来の近現代史に占める地理的位置性を総体的に把握するという意味で、「東京遺跡」という概念を提示しておいた。これとて、最終的には<遺跡>概念を解体するために通過すべき一つのプロセスに過ぎない。

目の前に広がる物的痕跡の読み方、そして見えていると思っていたものが、実は見えていなかったということ。
そうした拘束性に関わる自己認識をどこまで深めることができるか。

多くの、様々な見方、視点がある。
ある視点を採ることによって、今まで見えていなかったことが、見えてくることがある。
そうした新たな視点、別の仕方で考える考え方を、貪欲に吸収していきたい。


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