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15 存在している不在(2) [近現代考古学]

批判的経験主義(Critical empiricism):172-173.

こうした治療的遭遇(therapeutic encounter)は、批判的経験主義と称される考え方によって促進される。

批判的経験主義?
これは恐らく(正確には哲学系?の方にお聞きしなくてはならないのだが)バクリ&ルーカスの造語ではなかろうか。あちこち捜したのだが、見当たらない。
だから、これといった説明が困難である。挙げられている人物の名前をなぞりながら、それらしき輪郭を描いていくしかない。

デュルケム(Emile Durkheim)、ローティ(Richard Rorty)、バトラー(Judith Butler)、ラカー(Walter Lacuer)、フーコー(Michel Foucault)、バーバ(Homi Bhabha)、ダグラス(Mary Douglas)、ボードリヤール(Jean Baudrillard)、ド=ボルド(Guy de Bord)。

5章でのラスジの言葉が引用されている。
「物質的痕跡は、(一般的に何らかの行動が反映したものと考えられているが、そのような)単純な鏡のようなものではない。それらは、行動を変化させるように主導的な役割(a leading role)を果たす、批判的な構成物(a critical component)である。」(Rathje:p.69)

変更できない、凝固している、何らかの固定的な、そして本質的な何かを想定するのではない、流動的で、相互的な作用をなす事柄。
バトラーが「女」という性別カテゴリーが、決して生物的に決定されているのではなく、言説実践として現在進行形であり、意図的な介入に対して開かれた存在であることを示したように。「男」とか「女」というものを、「存在様式」として考えるのではなく、「行為遂行」的なものとして考えていくということ。

批判的経験主義は、失われ異化された(lost or alienated)経験を構成し、かつ個別化するように作用する。
ラカーとフーコーによって論じられた経験と主観の個人化(individuate experiences and subjectivities)。
主要な言説の外部に位置する、バーバによって述べられた「スタッボーン・チャンク(頑強な塊)」。第三世界を本質化するような植民地的言説を批判し、融合と変容と曖昧性に可能性を見出す。ダグラスによる「混合させる行為」(composting actions)を通じて、欠如の存在(presencing of absence)が表面化する。

ボードリヤールが言う実在を伴わない記号が支配する社会、幻影(Simulacrum)と現実、以前には確かなものが存在しなかった「過去」(Past)は、同時代過去の考古学を通じて「真実」(Truth)へと置き換わる。

様々なイメージ・テキスト・言説が溢れかえる現代において、物質化した「保障」(security)を与えるような社会的政治的含意とは、どのようなものなのか?
あるいは過剰さ、あるいは逆に忘却され、隠蔽されているものは、何なのか?
物質化した保障(materialised security)を推進する社会的目的とは?
果たしてそのような戦略が効果的であるのか否か。
その社会的コストは?
排除と欠如といった新たな形態が引き起こす事柄とは?
そして、私たちが物質化することで生み出される新たな言説とは?


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