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石文研2005(続) [石器研究]

「石文研2005」【2005-10-03】に寄せられたコメントを読みながら、暫らく考えていた。

捏造問題に関心がある市民、あるいは捏造問題のその後を追及しているマスコミ関係者、あるいは捏造問題に対処する考古学研究者を研究対象にしている社会学研究者などが、日本の旧石器研究において中心的な役割を果たしている?研究者のグループが、捏造発覚後に初めての本格的論文集を出したと聞いて、早速『石器文化研究12』を入手した、とする。
ところが、捏造問題に関する文章は、「刊行にあたって」という代表3名連記の文章において、共同声明を発表するのがいかに大変だったかという簡単な経緯と、捏造問題から得られた教訓として「石器観察が基本という至極当たり前のこと」が半頁ほどにまとめられているだけであることを見出して、唖然とするに違いない。

捏造事件によって、今までの「考古学的パターンを抽出するための基礎的研究方法」とやらが、全く役に立っていなかったことが白日の元に、万人の目の前に明らかにされたのだ。
「酸化鉄の傷の付着」とか「実測図と実資料との乖離」などといった表層的な問題だけで片付いてしまうはずもない。
それなのに、『石器文化研究』の9号と12号の表紙を取り替えても区別がつかない、すなわちどちらが捏造後の発行だか、奥付を見るまで、ということは論文内容の比較検討だけでは判断できない、というのはどういうことなのか。
そのことに対する説明が、「新しい「革命が目立たない十分な理由があること」を示されないだけ」などと聞かされた心境は、推して知るべし。

少し長くなりますが、ある文章から現在の心象風景を語ってもらいましょう。

「誰かの発表があります。終ると主宰者は「何か意見がありますか?」と尋ねます。誰も意見を言いません。セミナーが始まらない。この「何か意見がありますか?」には大きな誤りがあります。訊ねる方は、ある発表を聞いていたら自然と何か意見が湧くだろうと思ってこう言います。訊ねられた方のなかで、発表をなるほどと聞いた人は「自分には特に意見は無いな」と考えます。変だな、わからないなと思った人は「よくわからないから意見など無いな」と考えます。結局どこからも声が出ない。せいぜい、「何かわからないことがあったら質問して下さい」とうながされて、「・・・のところがわからなかったのでもう一度説明して下さい」という質問だけが出る、という、実に寂しいセミナーとなります。・・・
意見は作るものです。ある議論に対して、意見やコメントが自然に湧いてくると思うのは間違いです。・・・
では意見を作るのにはどうしたらよいのでしょうか。第1に心がけることは良く聞いて、「同意しない」ことです。反対すること、といっても良いのですが、反対するという語の意味あいにふくまれる、真っ向から対立するという点を強調すると、後で述べるように意見は作りにくくなります。・・・
議論とはそのように、不同意の意見を持つもの同士が互いに争点を突き止めてそこを開いていくことで成立します。不同意の意見が出ないのならば、誉めことばの続く祝賀会になるか、「異議ナーシ」の雄叫びが和する決起集会になります。・・・
意見は出来たけれども、せっかく準備して発表してくれた人を目の前にして反対はしづらい、異論を出してもどのように答えるかは大体わかっているので無駄なような気がする。みな黙っているところを見ると納得しているようで、じぶんだけ間違っているのかもしれないから手を挙げられない。こういったつぶやきは一言でいえば「度胸」がないのですが、この度胸というものも基礎的に身につけておかなければ知的な活動は出来ません。・・・
先に述べた「度胸の無さ」は自らを守るという不断の目的のための慎重さと表裏一体です。・・・そしてその「度胸」がなく、相手の考えていることを感得する奥義に達していない場合には、別の取るべき戦術があるのです。相手が話し出すと同時にうなずき返す。笑うべきところでは同時に笑う。そうやって数人の会話からそうとう大きな集まりまで、うなずきあいとタイミングを合わせた笑いとで、同意点が積み重なって行きます。・・・
同意の技術が「先取りしたうなずきあい」にまで奇形化するとき、「裸の王様」の危険がでてくることをまず指摘したいのです。互いに相手が何を考えているかを考え、相手が考えていることが自分が考えていることだ、としてうなずきあうとき、自分の眼に王様が見えるかどうかよりも、人が王様を裸と見ているかどうかだけが問題となり、その合わせ鏡的な誤謬の繰り返しを断ち切る契機がどこにも出てこないのです。その種類の過ちは「裸の王様」ほどシャープなかたちでは無くとも、セミナーや会議では日常的に起こっています。そして議論の末に同意が得られた場合でも、不同意な点を明らかにしないまま全面的に同意が成り立ったとするのはほとんどの場合、問題を先送りするだけです。・・・
不同意の技術を新たに強化し、さまざまな意見を出すことで議論を進め、論点を明らかにして問題を開いていく習練は、私たちにとって裸の王様の呪縛からのがれ、未来を構想しながら生きるためには不可欠のことです。」
船曳健夫1994「結び -「うなずきあい」の18年と訣れて-」『知の技法』:269-278


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砂田佳弘

こんばんわ。教えてください。
「高森遺跡が東アジアにおける最も古い石器群の一部を形成する事は、確実である。」五十嵐彰-高森遺跡発見の衝撃-日本列島に人類が登場したのはいつか?『別冊歴史読本●最前線シリーズ日本古代史[謎]の最前線◎発掘レポート1995 13頁』という結論に至った理由。その結論に至った「出土」石器群の観察記録、その結論が何らかの理由によって撤回せざるを得ない状況がうまれたのであれば、その理由。公言していれば、その刊行資料。そしてこれからの埋蔵文化財行政の歩むべき指針。自らの御託で啓示願います。
by 砂田佳弘 (2005-10-20 01:29) 

五十嵐彰

ようこそ、砂田佳弘さん。
「幾つかの疑問点を呈しつつも、「馬場壇A遺跡」(1989「15万年前の列島最古の遺跡 -宮城県・馬場壇A遺跡-」『古代史はこう書き変えられる 検証33の遺跡』立風書房、6-18頁)、「高森遺跡」(1995「日本列島に人類が登場したのはいつか? -高森遺跡発見の衝撃-」『別冊歴史読本 日本古代史〔謎〕の最前線 発掘レポート1995』新人物往来社、10-15頁)に関する記述をなした。その後、「上高森遺跡」の「埋納遺構」(1997「書評『ネアンデルタールの謎』」『旧石器考古学』第55号、80-82頁)、あるいは「上高森遺跡」の「第5次調査」(2000「日本第四紀学会ミニシンポジウム2000「日本列島の旧石器動物群をめぐる諸問題」」『東京の遺跡』第65号、6-7頁)について違和感を記したが、曖昧な表現に止まり、問題解決には何ら実効性を有し得なかった。捏造資料を肯定的に紹介した責任を明らかにし、自らの不明を批判したい。」
(五十嵐2003a「座散乱木8層上面石器群が問いかけるもの」『旧石器文化と石器使用痕研究 -方法論的課題と可能性-』p.31、石器使用痕研究会)
「研究対象について「本物」と「偽物」を判断する能力は、モノを扱う学問の基本的要件とされている。モノを研究対象とした諸学問の一つである「考古学」は、実はその識別能力という点で、重大な欠陥を有しているのではあるまいか? というよりは、むしろ「本物」と「偽物」を判断する手法が学問という営みにおいて「基本的要件である」という言説自体が問われるべきであろうか。これは、「恐るべき知らせ」である。しかし前期旧石器遺跡を主とする捏造事件が明るみに出した事柄には、考古学に限定されない学問的営為そのものが内包する本質的問題点が含まれている。」
(五十嵐2003c「相模野旧石器編年における王子ノ台遺跡出土石器群の不可視性」『考古論叢 神奈河』第11集、p.193、神奈川県考古学会)
「「宝物」に象徴される<発見第一主義>と「古物」に象徴される<先史中心主義>の行きつく先が、<2000年11月5日>であったと言えよう。捏造問題によって端的に示された日本考古学の危機は、単に旧石器研究の不備あるいは発掘手法の未熟さという点に留まらず、むしろ考古学という学問の成立当初からの構造的矛盾が表面化したものとして認識されなければならない。」
(五十嵐2004b「近現代考古学認識論 -遺跡概念と他者表象-」『時空をこえた対話』p.342、慶應義塾大学文学部民族学考古学研究室)
by 五十嵐彰 (2005-10-20 12:15) 

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